文化協会では毎年、日頃の活動状況報告や文化祭、総会、記念講演会などの内容などを、会員、地域の皆様方へお知らせするため、機関誌「層富」を発行しています。
会の発足の由来やロゴマーク等は下記の通りです。
発足から37年間一度も欠かすことなく毎年発行し皆様に愛されてきました。
これからも会の発展のため、ご協力をよろしくお願い致します。
会誌名「層富」(そほ・そふ)の由来
私たちが住んでいる平城ニュータウンの地域は、古 代には「層富」または「曽布」「添」とも記され、「倭六 県」(やまとのりくのあがた)の一つでありました。
出 典は『日本書紀』の神武即位前紀己未年の春2月壬辰 朔辛亥(20日)の条にみえる「層富県」によりました。題字もはじめ小さく、あと大きくしましたのは、皆様の将来と本会の末広の発展を願ったものです。古代大和の由緒ある地名を理事会の賛同を得て会誌 名としました。
ご愛顧の程を。 (網干善教)
会 章
平城ニュータウンの「平」と文化協会の[文]を上下に組み合わせ、単純な円形に まとめ、音如ヶ谷瓦窯跡から出土の古代軒 丸瓦の中央部分に配置したものです。
蓮華の中の埴輪の顔のようにも、二人三脚で楽しんでいるようにも見えます。
(基本デザイン 筧 裕) (構成デザイン 梶野 哲)
文化協会の創設について
当平城ニュータウン文化協会は元関西大学名誉教授の網干 善教先生が、当ニュータウンに移り住まれたことをきっかけに誕生いたしました。先生は文化協会の初代会長であり、亡くなられる直前まで文化協会に貢献されました。
以下に先生の簡単な略歴をお示ししますとともに深く感謝の意を表します。
網干 善教(あぼし よしのり・1927年9月29日 ~ 2006年7月29日)先生は、日本の考古学第一人者で、関西大学名誉教授でした。
専門は考古学、古代史、仏教史。文学博士(関西大学、1979年)。
奈良県高市郡飛鳥村(現・明日香村)出身。明日香村名誉村民です。
先生の生家は石舞台古墳のすぐ下にある唯称寺という浄土宗の寺で、1933年(昭和8年)から始まった第一次石舞台発掘調査に接して考古学に関心を持つようになられました。旧制畝傍中学校(現奈良県立畝傍高等学校)時代より、京都帝国大学考古学研究員であった末永雅雄先生(橿原考古学研究所初代所長、関西大学名誉教授、文化功労者、文化勲章受章者)が陣頭指揮を執る石舞台古墳の発掘調査に参加するなど考古学に傾倒し、橿原考古学研究所に通いつめ末永氏の薫陶を受けました。
関西大学助教授時代で、奈良県立橿原研究所所員だった1972年、高松塚古墳で彩色壁画を発掘、日本中に考古学ブームをもたらしました。その後末永雅雄氏の後任として関西大学文学部教授、同博物館長を経て名誉教授に就任されました。
文化庁主導による高松塚古墳の石室解体保存に関しては、文化庁による管理体制の不備、官僚的な事後対策を糾弾し、考古学者の立場から「遺構を人為的に動かすことは、遺跡の破壊行為である」と一貫して反対の姿勢を貫いた人でした。
日本国内での考古学調査はもとより、自身が僧籍にあったことから、インド共和国において、インド考古局との共同調査を実施され、仏教考古学、北インドの考古学研究にも多大な功績を残されました。考古学における実証主義を何よりも重んじ、門下、現在の考古学調査の最前線で活動する研究者、調査者を多く養成、輩出されました。
死後、従五位に叙され、瑞宝中綬章を授けられました。
文化協会創設時のエピソード 層富No29より
文化協会発足までのお話 松岡 禮一先生
それは、昭和56年の2月の事です。それは、右京4・5丁目地区自治会の班長会での話です。
新しく出発する事になる我々に前年度の役員さんから、4月になるまでに「新年度の役員全員を選出しておくように」との指示がありましたので、各組の班長は平城院さんに集まって前年度の役員さんの司会にて役員の選出を始めました。
集まった班長の中に永田喜一郎さんと言う人がおられて、現在自治会の会長をしておられるという事でした。
いよいよ話し合いが始まり、「会長職」を決める時になり、皆は永田さんに「我々は素人の集まりだから、何もかもよくご存知の永田さん。どうか、引き続いて会長二なって下さい」と懇願致しましたが、永田さんは2年も続けて会長になるのはイヤだ」とおっしゃって引き受けてくれませんでした。
我々は幾度も幾度もお願いしましたが、どうしても「うん」とは言ってくれませんでした。その時です。
誰の発言であったか忘れましたが「永田さん。どうか永田さんのお好きなようにやってください。我々は、永田さんの指示通りに動きますから何とか会長をお願いします」と、無理矢理にお願いしてくれました。しばらくの問、ジッと考えておられました永田さんは、やっと引き受けて下さる事になり我々はホッとしたのを覚えています。
4月になり、自治会の活動が開始しました。
自治会の役員会があった時、永田さんは時々「この地区に文化協会がないのはおかしい。何とかして文化協会が欲しい」と言うような事をおっしゃっておられました或る日、永田さんは「この地区に文化協会と言うものを作ろうと言う話が、いよいよ現実的な話になってきた。
しかし、もし出来たとしても、私は自治会の会長の職を無理矢理にさせられたのだから、出来るであろう文化協会の会長を引き受ける事は絶対しない。今言う文化協会の会長は、松岡さん、アンタ、なってくれ。今度はアンタの番だ」と急に私の方を見据えて強く指名されました。私は驚きました。私は「そんな柄ではありません。文化協会の会長になるような器ではありません」と、断り続けましたが、どうしても駄目でした。
私は、困って「この話は、しばらくおあずけ」と言う事にしてもらいました。そうして幾日か過ぎた或る日、連合会長をしておられる梶野さんと言う方が私の家に来られて、「当地区には、全国から文化風俗習慣の異なる方々が転居されているから、お互いの親睦を深めていかねばならない。そこで先ず、スポーツ協会を創設し1500人程の方々に参加して貰いました。万年青年クラブや社会福祉協議会や教育懇談会など設立されたが、何よりも文化協会の設立が求められています。松岡さん、会長になって下さいませんか」と、言うような意味の話をされました。
私は驚きました。全く知らないお方が私の家に来られて、これから出発すると言う「文化協会」の会長を依頼されるとは、本当に驚きました。私は「とても、とても、そんな柄ではございません。そんな器ではありません」と謝る気持ちてお断りするばかりでした。梶野さんはなかなか聞いてくれませんでしたが、その日は何とか帰ってもらいました。
丁度その頃の事だったと思います。
偶然にも本当に偶然にも、ある会合で宇陀中学校(現宇陀高校)で、私と同じく教鞭を執っていたI先生にお会いしたのです。久しぶりの事で懐かしくもあり、色々話を交わし旧情を温めていて、話しは今、私か困惑している文化協会の会長職の話をしましたら、しばらく黙っていたI先生は「丁度、いい話がある。アンタ、高松塚古墳発見の話を知っているでしょう。その、高松塚古墳を発見したと言う網干さんを私は畝傍中学で教えたように思う。今、確かアンタが住んでいる平城ニュータウンの方へ転居した、と言う事をチョット耳にしたよ。
紹介しよう。彼は大学卒業後、考古学、歴史学に貢献し、日本考古学会の会長になった、と言うから、キットいい仕事をしてくれるに違いないよ」と、言って名刺に紹介の言葉を書いてくれました。私は嬉しくてたまりませんでした。
私は、その網干善教と言うお方にお目にかかり、今度出発する文化協会の会長職をぜひお願いしよう、と考えました。
そうして、この話を自治会会長の永田さんに話しましたら、永田さんは「それはいい話だ」と言う事になり、右京4・5丁目の地区自治会役員全員と神功地区の役員をしておられた大橋さんや梶野さんとご一緒に、網干善教と言う関西大学の教授のお宅に参上して、文化協会の会長瞰をお願いすることになりました。
網干先生のお宅にお邪魔して「文化協会」設立の趣旨を説明し、その会長になって頂きたい旨を懇願しました。
ジッと聞いておられた先生は、しばらくして快諾して下さいました。とても嬉しくて、帰路皆と幾度も幾度も喜びを語り會いました。
このようにして「平城ニュータウン文化協会」と言う大きな船が、友綱を解いて大海原に輝かしく船出をしましたのが、昭和58年2月の28日の事でした。
【付け加えて】
副会長には滋賀県立図書館で、数百人もの参加と言う「本を読むお母さん大会」を開催し、全国的評価を受け大学にて図書館学講座までされた大橋一二さん、大学にて中国語を教えておられる下條新太郎さん、そして平城西中学校の校長の幸田有禅さんのお3人、事務局長には右京4・5丁目自治会の会長でもあり、住宅公団奈良営業所初代所長の永田喜一郎さん、そして会計には通産省と首相から表彰を受けた美容会社の林昭博さんと言うスタッフで出発しました。
(私は次の年に副会長になりました)尚、もう一つ付け加えますと、会誌の「層富」と言う名称は網干会長さんの発案と言う事です。「層富」の字は、書家の川口勇さんの揮毫、会章の図案は筧裕さんのデザインを梶野哲さんが図案化したと言う事です。
(印刷は、奈良少年刑務所)
私たち地域の歴史 層富No3号、4号より
地名の変遷をさぐる 初代会長 網干善教
それぞれの土地には長い間に刻まれた人間の生活の歴史がある。そして、その地を表示するために地名が生れた。山や川、森や林など地形や環境にちなむもの、鳥や獣などに由来するもの、そこに住んだ権力者の名を付したものなど、いろいろの条件のもとに名称が生れた。したがって地名は単なる符号ではなく、文化の遺産である。
一方、政治のしくみの組替えや、戦の勝敗などによって、属する範囲や名称の変更もしばしばあった。そのたびに在来の地名が消滅し、新しい名称が付されたこともある。そうした意味で、地名は不変のものではないが、消え去った地名も、その土地の歴史として、また伝承として何百年、何千年でも伝えられていく。
私たちが住んでいる平城ニュータウンの辺りでは、どのような変遷があったのだろうかを考えてみたいと思う。
現在の奈良県は「倭」や「大和(やまと)」などと呼ばれていたことは周知のことであり、いまもこの名称が使用されている。その倭には6つの県(あがた)が設けられていた。これを「倭六県」といわれている。平城平ユータウンの周辺は、そのうちの「添(そふ・そえ)の県」であった。この「そふ・そえ」という表記は「添」のほかに「層富」や「曽布」とも書かれた。
『日本書紀』神武天皇即位前紀2月20日の条に「層富県」とあり、『延喜式』の「祈年祭祝詞」には「曽布御県」という呼称を用いており、『正倉院文書』の天平二年「大倭国正税帳」には「添御県」とある。
私たち平城ニュータウン文化協会の会誌『層富』は古代のこのあたりの地名を生かし、それを顕彰する目的をもって命名したものである。しかし「そふ・そえ」の一般的な表記としては「添」の使用が頻度としては多かった。「添県」であったことを伝えている事例としては神社名によっても知ることができる。
平安時代に著わされた『延喜式』のなかの「神名帳」を繙くと、大和国に「添御県坐神社(そえのみあがたにいます神社)がみられる。ところが現在この社名をもつ神社が2ヵ所にある。うち一社は歌姫の町の北端(平城宮跡から歌姫を抜けて平城ニュータウンに通じる歌姫街道の西側)にあり、他の一社は奈良市三碓町(近鉄富雄駅の東南、帝塚山大学のある付近)に鎮座する。この両者のどちらが延喜式神名町記載の神社であるのか。また同一社名の両社がどのような関係にあったのかについては明確でなく、諸説がある。
それはともかく、両神社共に「添」の地にあることは間違いない。というのは「添」というのは天理市から奈良市、生駒市、生駒郡をふくむ広範な地域だからである。
この広範囲の「添」は大化改新による国郡の制度の施行によって「添上」と「添下」に分割された。このとき平城ニュータウンの周辺は「添下」に属した。『和名抄』によれば「曽不乃之毛(そふのしも)」と読んだことが知られる。「添下郡」が最初にみられるのは『日本書紀』天武天皇5年(676年)4月4日の条の「倭国添下郡」であり、添下郡は「村国」「佐紀」「矢田」「鳥貝」の四郷からなっていたことが知られる。私たちの住んでいる地域はこの四郷のうちの「佐紀郷」に属していた。
ちなみに「村国郷」は現在の大和郡山市高田町のあたり、「矢田郷」は同市矢田町の周辺、「鳥貝」は『和名抄』では「止利加比(とりかひ)」と読ませているが、この「貝」は「見」の誤記なのか、それとも「貝」が「見」に変化したのかに問題がある。
江戸時代に編纂された『大和志』によれば「鳥見庄」とあるが、もっと古い『続日本紀』の和銅7年(714年)11月4日の条には「登美箭田二郷」とあって、「箭田(やだ)」は現在の矢田のことであるから、奈良市の西部は奈良時代には「登美」とも呼ばれていたことが知られ、今の「登美ヶ丘」の地名の由来となっている。「登美」は「鳥見」であるから「貝」は「見」であろうとする説が有力である。
「佐紀」が添下郡であったことは、聖武天皇の皇女で、後に孝謙天皇、重祚して称徳天皇となられた高野天皇が崩御された『続日本紀』の宝亀元年(770年)8月17日の条に「高野天皇を大和国添下郡佐貴郷の高野山陵に葬る」とあることによっても知られる。この高野陵は近鉄平城駅の東南近くの山陵町にある古墳(問題はあるが)に比定されているから、この辺りも佐貴(佐紀)郷であったことが知られる。
なお、添下郡は明治30年4月1日の改正によって平群郡と併合し、生駒郡となり、添下郡の名称は消滅してしまった。
徳川幕政の終正与から明治維新にかけて地方政治は大きく変遷した。私たちの住んでいる平城ニュータウンとなっている地域も同様であった。その一例をみてみよう。
昭和62年3月31日、神功は山陵町から、右京、朱雀、左京は歌姫から分離して新町名になった。(昭和46年からは通称町名として使用されていた。)
さて平城ニュータウンの地区は奈良市に編入される以前は平城村と称していた。その前は山陵村、歌姫村であった。これの変遷を辿ってみよう。
江戸時代は山陵村、歌姫村、押(忍)熊、中山村、秋篠があった。これらは大和国添下郡に所属していた。
慶応四年(明治元年)1月11日、新政府は大和国に鳥丸光徳を奈良に下向させた。今月11日久我通久を総督として大和鎮台を置いた。2月1日大和鎮台は大和鎮撫総督府となった。5月19日春日仲襄を初代知事に任命し奈良県を置いた7月29日奈良県が奈良府と改められ園池公静が知事となった。
明治2年7月17日 再び奈良県と称した。
明治3年2月27日 廃藩置県により大和一国が奈良県となった。明治4年11月に秋篠村と本郷村が合併秋篠村となった。
明治5年4月18日 庄屋、年寄の名称が廃止された。
令年、5月16日 奈良県下全域に大区・小区の制度ができた。山陵村、歌姫村は第1大区第21小区となった。
明治9年4月18日 奈良県を廃止し、堺県となった。
令年、12月25日 大和は5大区24小区に改正、山陵、歌姫村は第2大区第1小区となった。
明治16年6月「郡区町村編成法」(太政官府第17号)の公布により大区・小区が廃止された。
明治13年4月「区町村会法」(太政官府第18号)が公布された。
明治13年4月 大和国(堺県)に4連合郡役所が設置された。
明治14年2月7日 堺県が大阪府に統合された。そして明治20年11月4日 再び奈良県が設置された。 (令年は99年目にあたる。)
この間、押熊、中山、歌姫、山陵、秋篠村の5村が合併して平城村を設置しようとする合村願は明治21年7月29日提出された。このとき奈良県では新しく町村名を付すにあたって、『町村制施行内規』を示し「歴史上関係の深いもの」「旧記を詳しく調べ古くからある地名」「山とか氏神名」などから選ぶように指導した。
明治22年4月1日 従来の町村名が「大字」となった。
明治30年4月 添下郡と平群郡が合併し生駒郡となった。
昭和6年 平城村が奈良市に編入する協議が出されたが実現されなかった。
戦後の昭和22年12月 再び協議、その後秋篠村の一部から反対。
昭和26年3月15日 生駒郡平城村を奈良市に合併した。
記録をみると「奈良市に合併された押熊、中山、秋篠、山陵、歌姫の5大字の平城村は、今度の合併問題で陣痛の最も強かった村である。しかし奈良という地名の原地が平城村歌姫を中心とするナラ山にあったことは、多くの学者の説が一致し、地名的に母子の関係にある奈良市との合併が最後まで困難視されていただけに合併の喜びは大きい」と記している。
過去の「層富」発行における表紙の変遷
表紙からその時代が伺える
文化協会では毎年、総会や文化祭において、その時々の話題になっている著名人をお招きして、記念講演会を開催してきました。設立当初から2000年前半までは広い会場が確保できず、講演会会場確保にも苦労されたようです。
2004年に奈良市北部会館市民文化ホールが完成し、その後は活動拠点として大いに利用させていただいています。
尚、下記のリストは「層富」発行年度であり、講師と演題は前年度のものとなります。
講演会記録を読みたい方は、その年度の「層富」をお読みください。
(1984年~2006年は総会・セミナーの記念講演会で、それ以降は文化祭の記念講演会)
和暦 | 年度 | 回数 | 講師 | プロフィール | 演 題 |
昭和59年 | 1984年 | 2 | 澤田 恂 | 社会保険大和郡山総合病院長 | 将来の医学の展望 |
昭和60年 | 1985年 | 3 | 網干善教 | 関西大学教授 | 高句麗とその文化 |
昭和61年 | 1986年 | 4 | 永田喜一郎 | 初代事務局長 | 西域カシガルへの旅 |
昭和62年 | 1987年 | 5 | 渡辺亮斗 | 常任理事 | インド仏跡の旅 |
平成63年 | 1988年 | 6 |
網干善教 |
関西大学教授 | 祇園精舎跡の発掘調査 |
平成元年 | 1989年 | 7 | 建部恭宣 | 常任理事 | 古琉球への誘い |
平成 2年 | 1990年 | 8 | 網干善教 | 関西大学教授 | 北朝鮮の考古事情 |
平成 3年 | 1991年 | 9 | 高野幸一 | 常任理事 | 中国人との出会い |
平成 4年 | 1992年 | 10 | 鎌田時栄 | 常任理事 | 外国人への小学校教育と生涯教育(アメリカで垣間見た) |
平成 5年 | 1993年 | 11 | 網干善教 | 関西大学教授 | 舎衛城跡の発掘 |
平成 6年 | 1994年 | 12 | 網干善教 | 関西大学教授倭 | 倭は国のまほろば |
平成 7年 | 1995年 | 13 | 網干善教 | 関西大学教授 |
考古学から見た飛鳥 ―飛鳥でどのような問題を考えるか― |
平成 8年 |
1996年 | 14 | 南田昭典 | 奈良市企画部長 | 世界遺産について |
平成 9年 | 1997年 | 15 | 網干善教 | 関西大学名誉教授 | キトラ古墳と高松塚古墳の壁画 |
平成10年 | 1998年 | 16 | 網干善教 | 関西大学名誉教授 | 邪馬台国とは |
平成11年 | 1999年 | 17 | 網干善教 | 関西大学名誉教授 | 飛鳥新出土の亀形石について |
平成12年 | 2000年 | 18 | 網干善教 | 関西大学名誉教授 | キトラ古墳から朱雀図 |
平成13年 | 2001年 | 19 | 網干善教 | 関西大学名誉教授 | 高松塚古墳とキトラ古墳の壁画 |
平成14年 | 2002年 | 20 |
網干善教 |
関西大学名誉教授 | 最近飛鳥で出土した暦の木簡 |
平成15年 | 2003年 | 21 | 網干善教 | 関西大学名誉教授 | 最近の飛鳥発掘の成果 |
平成16年 | 2004年 | 22 | 網干善教 | 関西大学名誉教授 | 壁画古墳をめぐる諸問題 |
平成17年 | 2005年 | 23 |
平松良雄 |
奈良県立橿原考古学研究所 | 飛鳥の古代寺院の瓦 |
平成18年 | 2006年 | 24 |
石原 潤 |
奈良大学学長 | 中国の都市は、どう変わったか |
平成19年 | 2007年 | 25 | 中村泰士 | 奈良出身歌手・作曲家 | 中村泰士さんのお話と歌 |
平成20年 |
2008年 |
26 |
土平 博 | 奈良大学文学部地理学科准教授 | 「ならやま」の丘陵と国郡界―境界をめぐる歴史地理― |
平成21年 | 2009年 | 27 |
山本浩之 |
関西TVアナウンサー |
拓かれた地域社会―ひとりひとりに出来ること― |
平成22年 |
2010年 | 28 |
上村淳之 |
日本画家 |
大極殿壁画を制作日本人の心「四神十二支の表現の中で」 |
平成23年 | 2011年 | 29 | 河瀬直美 | 映画作家 | 映画製作への想い |
平成24年 |
2012年 | 30 |
木下正史 |
東京学芸大学名誉教授 |
魅惑する飛鳥「文明開化を告げる遺産群」 |
平成25年 |
2013年 | 31 |
山本浩之 |
フリーアナウンサー |
今、守らなければならないもの |
平成26年 |
2014年 | 32 |
市川良哉 |
奈良大学理事長 |
こころの風景「大愚良寛の場合」 |
平成27年 |
2015年 | 33 |
真田信次 |
奈良大学文学部長 |
海を渡った日本語―アジア太平洋に残留することば― |
平成28年 | 2016年 | 34 | 今津節生 | 奈良大学教授 | 科学が解き明かす卑弥呼の時代 |
平成29年 | 2017年 | 35 | 光石亜由美 | 奈良大学教授 |
写真で辿る「奈良いまは昔」―郷土の文化人・北村信昭の世界ー |
平成30年 | 2018年 | 36 | 寺崎保広 | 奈良大学教授 |
平城京の住民―長屋王家木簡から30年― |
令和元年 | 2019年 | 37 | 関根 俊一 | 奈良大学副学長 |
十一面観音像の由来 |
令和2年 | 2020年 | 38 |
新型コロナウイルス感染防止のため中止 |
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令和3年 | 2021年 | 39 |
新型コロナウイルスの感染防止のため中止 |