現在の「層富」と創刊時の「層富」がどのように変革してきたか知ることが出来ました。現在も創刊時とほぼ同じ形態がとられ歴史を引き継いでいることが判りました。会長を引き継いだ時、読みやすく親しまれる「層富」の全面見直しを計画しましたが、編集会議において多くの方の意見から今の形態となり、創刊時の思想をそのまま引き継ぐことが必要と判断いたしました。

 文化協会の「層富」は、この地域の歴史・文化を後世に伝える貴重な小冊子であります。

会員の皆様にも創設時の理念をご理解して頂き、忘れないようにして頂くため、多くの記事をそのままここに掲載いたします。

35年前のニュータウンの状況を知ることが出来ますので、一読して頂ければ幸いです。

                              平城ニュータウン文化協会 第4代会長 日比野 豊

層富 創刊号への寄稿文&文芸作品  1983年8月発行 

   奈良の昔話 「語りべの縁につながる中で」     幸田 有禅

 わたしが、口演童話の魅力にとりつかれ、昭和のかたりべになりたいと願うようになって40年ほどになります。

なにがこんなにも昔話を聞いたり聞かせたりすることが好きになったのか、ふりかえりますと結局は、わたしの生い立ちの環境にあるようです。

 わたしは、鳥取県の赤碕という田舎町の小さな禅寺で生まれました。父がとっても話し好きで、来訪者をつかまえては茶を喫し、一日中でも故事来歴をおもしろおかしく話をしていました。次に母方の祖母が毎日のように寺へ来ては、狐に化かされた話、幽霊、森や川などにまつわる話をしてくれていました。

 私が中学校時代は日支事変の頃で、農繁期には、寺で幼児50名をあずかる保育所を開設していました。学校の先生、女学生、父母姉夫婦が保育する中で、わたしも紙芝居づくり、おとぎ話、大和の行商人から直接聞いた話をする機会がたびたびありました。「兄ちゃんもっときかせて、話をして」 幼児にせがまれると、勉強そっちのけで、話しに夢中になったものでした。

 縁があり吉野の禅寺へ弟子となることになった私は、夏休みには、吉野の寺で雲水修行をしました。ところで吉野の師尚の趣味が書道と口演童話でした。彼岸会式、観音講などどんな会式でも、子どもを集めては、童話や紙芝居をくり返していました。

 特に各地で布教師を頼まれると、近辺の小学校を訪ねては、童話会をしていました。「父のようにあんなに上手に話ができたらな」そんな思いでいつも聞いていました。

 奈良師範入学と同時に童話部を結成し、当時大阪などから疎開してきている旅館合宿の小学生に、激励童話会をしたりしました。

 奈良県童話連盟に入会を契機に民話の採集や創作童話をはじめ、仲川明、久留島武彦、山田熊夫、阪本学、宮前庄市先生方のすばらしい口演童話を聞く機会を得ました。

 最近わたしたち同人で「ならのむかし話」と「奈良の伝説」の2巻を〈日本評準〉で発刊しました。 それを編集するに当たり、先ず伝説と昔話の区別の必要に迫られました。

 結局、かって紐解いたことのある民俗学で有名な柳田国男氏の「日本の伝説」の論説を基盤にすることにしました。

 「伝説と昔話とはどう違うか。昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなものだ。昔話はほうぼう飛び歩くから、どこに行っても同じ姿で見かけることができるが、伝説は、ある一つの土地に根を生やしていて、そうしてつねに成長していくものである。」

この昔話は動物、伝説は植物の2つ大別の仕方はよく判る学説だと思いました。またある説では、同じ口承文学の形態で、昔話は、「むかしむかしあるところに・・・・・・・」と時代も場所を特定していない。伝説は「今から○年程前に春日山のそばの杉の木の上に・・・・・・・」と年代・場所など特定している。などと、場所・年代の特定の有無で区分しています。

 奈良の伝説・昔話の本を編集するに当たって、昭和34年に出版された「大和の伝説」(奈良県童話連盟と高田十郎氏の編集)をたよりにして、伝説と昔話をふりわけてみました。

 この「大和の伝説」の本には、奈良県下各地の伝説が千数十話採録されています。

 殆どが、その土地にある自然物にゆかりをもつ伝説ですが、奈良独特のむかし話に属するものが少ないことに気がつきました。伝説を分類すると、法力(弘法)伝説・霊泉・地蔵・石・渕・蛇・古木・力持ち・悲しい話・山・川・ほこら・お寺・などに区分されますが、約80%が伝説でした。特に奈良市では、昔話の口承が少なく、山間の田原町に伝わる「地獄めぐり」という昔話形態の話が一つみつかりました。

 その「地獄めぐり」という話のあらすじは、「昔あるところに2人の遊び人の若者がぽっくり同じ頃に亡くなった。極楽をさがしているとき3人連れと出会い同道することになった。途中黒鬼につかまり、焔魔大王により生前の業罪責から裁きを受けることになる。結句罰に対し、一人は軽わざ師、一人は祈祷師、一人は医者遊び人の2人が持ち前の特技を生かし、罰をぬける」という落語や万歳のオチにも似た形態もある楽しい話でした。

 「猿沢池の竜」とか、ほかにありますが、これはむかしの書物にあったものが語り継がれたものです。

 奈良市内には、吉野山間に比べ、奈良らしい昔話が定着していません。それは、古都観光都市として旅人の出入りが激しく情報も豊富、多くのものが口承されるため散逸したのかもしれません。

 ある日、奈良市内の93才の寝たきりのおばあさんに、むかし話の採集にいきました。おばあさんは「わたしみたいな者も役に立ちますかえ」といいながら、新薬師寺の身替り地蔵の話をしてくれました。その話は、お寺の人もはっきり知られませんでした。そのおばあさんは、私に伝えた身替り地蔵の話を残して一か月後、天に召されていかれました。

(奈良市立平城西中学校校長)

  住みたくなる街づくりを目指して 平城ニュータウンの建設に思う 大津 克巳

 はじめに平城ニュータウン文化協会ご結成一周年を迎えられ、会報の創刊号をご発刊されるに当たり心よりお祝い申し上げます。

 今年は厳しい寒さが続きました。毎年3月13日には東大寺二月堂での長い一連の仏事を了えて法螺貝のろうろうと響く中、お堂前の「若狭井」よりお香水を汲み本堂に供える、いわゆるお水取りの行事を迎えます。もう春遠からしと言うところです。

 私事ではありますが、当所に着任しましてこの5月で早や8年の歳月が過ぎようとしております。お水取りはマスコミの季語になっていますが私にとっては別の意味を持つ熟語です。

 今から20年程話しは逆のぼりますが当時、日本住宅公団大阪支所宅地開発部で地区選定の業務に携わっておりました。大久保氏(現在阪大法学部教授)を班長に数名で近鉄平城駅前から歩きはじめ、それこそ腰弁当で神功皇后陵から押熊、山田川、歌姫町他、地区内外を踏査したものです。その頃はもち論、高の原駅もなく一帯は雑木林などの丘陵地でしたが、今のニュータウンの姿を見るにつけて隔世の観がします。と同時に将来自らがこのニュータウンづくりに携わることになるとは当時は夢にも思わなかったものです。

 昭和40年に当地区の計画を進める為の手続きが開始されましたが、その後、宅地造成も進められ、昭和47年には初めての入居者を迎えるに至りました。手元にある資料などによりますと私か着任した51年頃の二ユータウン人口は約6500人でした。それが53年には約8600人、58年約14000人と急ピッチで増えておりますが、やがて相楽地区(京都府側)にも人が住み始めるようになると、もっと人口は増して街並みも関西一円と言うよりも日本でも有数の美しいニュータウンになると思われます。いつも考えているところですが、この街づくりに当たつては「住みたくなる街」を目指しております。この為に次のような5項目の基本理念をあげて見ました。

1.古都奈良、京都にふさわしい街づくり

2.風土と調和する住宅地を創り出し創造的な生活空間を築く

3.グリーンーシステム(緑の系統)により緑を張り廻らし豊かな生活空間を創り出す

4.7つの近隣住区を基準とする生活空間を築く

5.日常の快適な都市生活に必要な供給処理施設を整理し健全な街づくりを目指すなどです。

 或いは基本理念というよりはこの街づくりに賭ける私の信念のようなものかも知れません。

 さて皆様方もすでにご存知の事と思いますが、このニュータウンは奈良県側(349ヘクタール)を平城地区、京都府側(264ヘクタール)を相楽地区と称しているのですが、全地区613ヘクタールが完成し計画通りに人が住みつきますと約73000人の人口となり、これは千里ニュータウンや泉北ニュータウンのぽぼ半分位に当たる規模のものです。

このニュータウンのこれからの建設計画ですが、現在は街の核でもある高の原駅前整備に向けて全力投球をしていますが、宅地造成については平城地区を昭和61年度に完成させ、相楽地区を昭和64年度に(61年度使用開始、街びらき)終結させる予定でおります。また一方ではマスコミなどで話題にされている京都府南部地域や、奈良県、大阪府の二府一県にまたがる京阪奈丘陵に繰り広げられようとしている関西文化学術研究都市の開発構想ですが、国土庁を中心に関係する公共団体などの手でまとめられその一部については提唱もされています。

 このプロジェクトが実現化されますと自然に囲まれた壮大な文化と学術の新しい街が出現し、この時には平城・相楽ニュータウンはその一環を担う住宅都市として更に新たな魅力が加わることになるでしょう。このように単なる住宅地開発として高度経済成長の波にのって歩んできた当ニュータウンも、周辺の環境にふさわしいロマンに包まれた新しい街づくりが進められ21世紀に向って確実に歩んで行くことになります。

 終わりにこのような意義ある時機に、日本でも余り例のない平城ニュータウン文化協会の今後益々のご発展を希って創刊のお祝いの辞と致します。 (住宅都市整備公団関西支社平城開発事務所長) 

  平城ニュータウンと私            酒井 敦子

 この町に移り住む前のある日のこと、隣りのAさんが家の設計図をもって“お茶”に見えた。そのころ私達は社宅に住み、昼間は幼い子供の世話と、転勤族の亭主の留守を預かっていた。いつ転勤するかも知れない主人のもとで、つねに引越の準備をしながら、それでも毎日平々凡々と同じ屋根の下で、何人もの主婦たちが退屈粉れに、お茶のひとときを楽しんでいた。幼い子供をかかえて遠出が出来ない主婦達の退屈粉れ、の会といってもそれはそれなりに結構楽しく、有意義なものであった。

 そん時、Aさんは引越するという、平城ニュータウンヘである。

 彼女が転居して半年ほどのち、電話で、新たにミナミ区画売り出されていることを報せでくれた。爽竹桃の紅花が咲いている真夏の暑い盛りだったが、ちょっと散歩のつもりで、ニュータウンのあちこちを歩いてみた。

 どの通りも、どの家並も素敵じゃありませんか。私は歩いているうちに、だんだんこの街が好きになってしまった。今度はもう少しまじめにどの区画にするか一筋、一筋丁寧に歩いた。そのうちひとつの区画に辿りついた。南通りに面していて、北側には小高い雑木林があり、そのすぐ下は谷になっていて、川の流れがいまにもきこえてくるようでもあった。その川の土手の上の方には赤い歩行者専用道路があり、それに沿って四季の色を飾るグリーンベルトが並んでいるのがなんとも素晴しかった。

 その後、私たちはその1画を申し込むため1枚の葉書を投函した。しかしこの時はまだ特にこの平城ニュータウンに是非住みたいという切望もなく、ただ御縁があればという気持だった。

 あとから148人もが、その区画を申し込んでいたことを知って全く驚いた。当りっこないと思っていた気持の方が強かった、ところが抽選にはあたったのだ。私たちがその場所を選んだというよりむしろ、その区画が私たち家族を選んでくれたと思える程であった。

 人の一生というのは、人類の長い歴史からみれば、ほんのわずかな瞬間であるかも知れない。その時期を私はここに住ませてもらう。人が一生のうちに出会う土地や人は多いようだが実際は限られている。こんなふうに思いを巡らしてくると、長い歴史の中で、自分の生きる時代、場所(地域)、出合う人たちのことを限りなくいとおしく思える。今私は偶然ここに住む、そしてここの人々と出会い友となる。

 しかし、それは偶然ではないかも知れない。何か前世から決められていた、自分に与えられた運命のようなものかも知れぬ。

 それらは皆、わけあってこのニュータウンに住んでいるのではないか。ここに長く住む人、短期間だけ住む人、いろいろいるだろう。しかし、あの頃あの地に住んだ時は本当によかったといえる街でありたい。

 このニュータウンに恒久的あるいは一時的に住む人、両者ともその人の人生にとって、その時期その年代はたった一度なのだと思うとき、この地に住む一日一日がとても大切に思えてくる。そう思うのは私ひとりだけであろうか。

 現在、私たちが住むニュータウンに文化協会が設立されていることはとても嬉しい。『人間生活は没社会的であってはいけない。互いに自分のもつ「よいもの」を出しあい、また人から「欠けているもの」を教わって、自分白身を人間的に高めていくことが大切だ』と言われる網干会長のお言葉が胸にひびく。 私もこのニュータウンに住ませて載いている間に、私の人生で今この時にしかできないようなことを見つけ出し、良き友と出会い、少しでも人間的に自分自身を高めていくことができれば、この町に住まうこととあわせて二重の幸せである。

  春近く平城ニュータウン雑感          匿名さん

 オリオン星座の3ツ星が中天近く、雲の切れ目からバス停を離れ、街灯の光がとどかなくなると、くっきり眼に飛び込む。午後7時、ああもう春だな、シリウスは雲の中だ。

 1月の末、3ツ星が丘木立の上に姿をみせたときを想い出す。星座は月とは逆に日ごとに東から登る時間が早くなっているのだ。大阪近郊の古い住宅地に住む妹がいった。

「兄ちゃんとこはものすごく空か大きい」「とにかく、ホトトギスなきつる里は、酒屋へ3里、豆腐屋へ5里」「陸の孤島だよ」「のりかえ3回、階段2百数十段」甲羅に苔のはえたサラリーマンの述懐ではある。

「トンネルを抜けると気温は3度違う」これは奈良に普から住む友人の表現。

 ナンバンハゼの銀色の実とオレンジ色の街灯はよく似合う、バスの中でいつもそう思う。「ついの住家」といと女房がちょっと嫌な顔をした。霧の朝のバス停はいい、ハシブト鳥が堂々とビニールのごみ袋を狙っているのもよい、ジョウビキタ、ツグミ、ヒヨドリ、メジロ、シジュウガラといった野鳥を図鑑で知った。

 雪の多かった今年は、赤い実にさそわれて、ツグミの集団が昨年のヒレンジャクにとって変わり、一日で消化してしまった。

 風が吹く、雲か霧か。青空をバックに低く、いつか見た立山室堂2600mの朝のように。

 4月に入ったら秋篠の方ヘツクシをとりに行こう。一つ一つの自然が、長く残ってほしい。いつの間にか子供心にかえっている自分に気づき、思わず笑みをうかぺる。5月末のホトトギスの声-今年はどうだろうか。

創刊号 1983年の短歌&俳句