ホームページ作成当初、創刊号が見当たらず探していましたが、右京のメンバー方にあり借用できました。当時の平城ニュータウンとしては画期的なことで、文化協会として毎日新聞に掲載されるほどでした。

文化協会発足時の経緯やエピソードなどは調査で分かりましたが、どのような形態で小冊子が出来たのか不明でした。今回その内容が知ることが出来、会員皆様にも創設時の理念をご理解して頂き忘れないようにして頂くため、多くの記事をそのままここに掲載いたします。35年前のニュータウンの状況を知ることが出来ますので、一読して頂ければ幸いです。

                  平城ニュータウン文化協会 第4代会長 日比野 豊

 

層富No1号(創刊号)  1983年8月発行 

『巻頭のことば』    平城ニュータウン文化協会会長  網干善教

 私たちの平城ニュータウンに「文化の燈火を」そしてたとえその明りが、小さく、暗くとも、やがて町全体を照すような灯火にしたいという願いをこめて、文化協会が発足し、一年が経過しました。

 会員の方々は、それぞれのサークルで活動下さっていますが、なお設営に不十分な点も多いと思います。最初から大きな成果を挙げ得るということはむつかしく、容易でないともよく承知しています。

 人間は勝手なもので、それがなくては生活できないとか、著しい利害関係が生じるというような場合には、何をさておいても真剣になりますが、いつでもできるだろう、それをしなくても別に困らないと思うと、つい消極的になりがちです。

 文化活動というものはどうも二の次のように考えられ易いのです。ところがスポーツにおいても平素からの基本的訓練が必要ですし、子供たちの学習を見ていましても、毎日毎日の積み重ねが大きく成長する結果となります。

 平素から、名著、名作といわれるすぐれた本をよく読んでいる人とそうでない人、絵画や音楽など芸術性豊かなものに馴染んでいる人とそうでない人、自分の趣味や興味を深めながら生活している人とそうでない人など、どこか人問性に違いが生じるものだと思います。

 孤独で、偏見で、協調性にとぼしく、ただ自分だけを過信し、それに満足し、自分だけの幸を求めて生きるということは、人間として悲しむべきことだと思われます。

 いみじくも『中庸』に「博く之を字び、審らかに之を問い、慎んで之を思い、明らかに之を弁じ、篤く之を行う」ことの必要を説き、明の洪自誠の著書『菜根譚』では「高き(山)に登れば、人をして心曠からしめ(心が広くなる)流れに臨めば(大河)人をして意遠らしか(思いも遠くはせる)」(環境を一転して心意を遠大にすべきだ)といっています。幅広く、深みのある人間となりたいものです。私たちはささやかながらも文化協会の活動を通じて、より成長したいと願うものであります。                 (関西大学教授)

  地域の歴史 カラト古墳

 木津川市と奈良市の境の標高112mの丘陵緩傾斜面に築造された上円下方墳で、国の史跡名勝天然記念物に指定されています。昭和54年(1979年)に、ニュータウン建設に先立って奈良国立文化財研究所によって発掘調査がおこなわれました。

 下の方形部は、一辺13.8m・高さ1.36m、上の円形部は、径9.2m・高さ1.55mで、高松塚古墳石室の退化した横口式石室を内部主体としています。

立地から平城京遷都に関係する皇族の墓ではないかといわれています。

現在築造当時の姿を復原し、公園として整備しています。

(木津川市兜台3丁目と神功 1丁目の境界にあります)  日比野記

   カラト古墳の話          鬼頭 清明

 私たちの住んでいる平城ニュータウンの中にも「石のカラト」とよばれている古墳があります。この古墳は随分古くから知られていて、享保9年といいますから(1724年)徳川吉宗の将軍時代にすでに「五ヶ村惣図」という地図に記されています。

 この惣図は同年山城と大和とで国境の争論(裁判)があって、大和が勝訴し、その時、カラト古墳のある土地が大和国の領地に確定したといわれています。したがって、奈良県ではこれを以後「カラト古墳」とよんでいますが、京都府では「カザヒ古墳」とよんでいるそうです。石のカラトとは変わった名前ですが、その名前のおこりは石室に投込んだ石がカラカラと音をたてるからだとか、「日本書紀」にみえる忍態王子が戦いのさい、石を集めてつくった石畳がこの石室で、それを石のカラトと呼んだのだとかいわれています。以後、明治・大正を通じて研究がすすめられてきましたが、発掘調査は最近まで行われたことがありませんでした。ところが、1978年になって、日本住宅公団が石のカラト古墳の西側に専用歩道をつけることになり、公団ではすでにこの古墳が重要な遺跡であることを承知して、緑地として保存する計画ではありましたが、何分古墳の範囲がわからなかったため、古墳の規模と範囲とを確認するために発掘調査をすることになりました。その結果、奈良国立文化財研究所が奈良県教育委員会と京都府教育委員会の依頼を受けて発掘調査を行いました。

その結果、古墳のかたちは、下段が方形で上段が円形、方形の一辺13m前後、円形の上段は直径が約9mほどになっていて、高さは、東辺で3mほどであることが判りました。さらに古墳の内部の各施設は、図のような石室がみつかり(一部は発掘されるまえから入口が開いていたため知られていましたが)石室の中から、金、銀製の玉、銀装唐様太刀の外装具、漆片、金箔片などがみつかりました。また、石室の前方につくられた墓道や墳丘南側から土器が小数みつかっています。

また墳丘は版築技法(はんちくぎほう)といって土を何層にも重ねて人力でたたきしめて作り上げたもので、高松塚やマルコ山古墳などと同じ作り方になっていることもわかりました。また、土器の年代は平城遷都前後にあたり、このカラト古墳もそのころ作られたのではないかと思われます。

 さて、古墳といえば、お墓。古代人のお墓といえば、誰のお墓だったのだろうという点が気になります。有名な高松塚古墳の例も、そういう話題が何度となく新聞・雑誌に掲載されました。しかし石のカラト古墳については、そのような被葬者を考える手がかりが殆どなく、残念ながら特定の個人の名前を推定することができません。しかし、特定の個人の名前が推定できるにしても、何時ごろ活躍した人のお墓だったのか、どの程度の階層のものだったのかはなんとか推定できるのではないだろうか。このようなことを考えるために古墳の歴史のなかで、カラト古墳がどのような系譜をもっていたものかをまず述べてみよう。石のカラト古墳は発掘の結果、円墳で、横穴式の古墳であることがわかりました。横穴式の古墳といえば、日本の古墳の歴史の中では5世紀後半頃からつくられはじめたもので(それ以前は縦穴式といわれる)、以後、7世紀の末ないし8世紀の初頭ごろまでつくられた形式です。

石のカラト古墳は、この横穴式古墳の一番終わり頃、おそらく8世紀初頭に作られたものとされ、奈良県の歴史でいえば、ちょうど平城京が営まれ、京の中に次々に諸寺院が建てられた時代で、日本に唐の文化が次々にとり入れられていた時代にあたります。唐ばかりではなく、672年に滅亡した百済の文化、その後日本と友好関係を結んだ新羅の文化などもそれぞれ大量に日本へもたらされたといわれています。

 このような時代につくられた古墳は、やはりその時代の特色を色濃くきざみつけられているようです。この石のカラト古墳の石室をみると、表面を丁寧にみがいた切石を使っているのが注目されます。似たような古墳をあげてみると、高松塚古墳、高松塚のすぐ北にある中尾山古墳、その西方にある牽牛子塚古墳など飛鳥の古墳を次々にあげることができます。これらの古墳はいわば石のカラト古墳と兄弟関係(被葬者ではありません。古墳の作り方や形態が系譜として似ているのです)といってもよいほどの親近性をもっています。

 これらの古墳ではこの石室の中に故人を棺(うるしなどでつくった)を入れて埋葬したものといわれています。そうして、もう一つこれらの古墳の石室について共通しているのは右室自体が家形石棺のなごりをとどめているのだとされているのです。したがって石室は大きな石をくりぬいたり (牽牛子塚)、切石を壁面にならべて(高松塚古墳など)家形石棺の形になぞらえてあるのだそうです。このような形式の古墳は石棺式古墳とよばれて、朝鮮の影響をうけた形態で、大阪府の、かかしの河内国で最初7世紀のはじめごろに作りはじめられ、7世紀の終りから8世紀の始めにかけて大和でもつくられるようになりました。高松塚古墳と同じ類の古墳だということですし、金や銀製品、銀装の太刀などを一緒に埋めてもらった人が被葬者なのですから、石のカラト古墳の被葬者も、天皇家の一族か、それに準ずるような身分の高い人であったにちがいありません。

さて、被葬者はだれかということになると、さっぱりわかりません。文献史料の中から容疑者をあげてみると、志貴皇子(716年没)、穂積親王(715年没)、安八万王(719年没)、河内王(728年没)、葛木王(729年没)、など沢山出てきて、ジャーロック・ホームズ(なんと古い人でごめんなさい。でも刑事コロンボでも、チョットこのナゾときはできそうにありません。第一物的証拠が少すぎるのです。

 このナゾ解きができないのは、いささか残念ですが、しかし、歴史や考古学がおもしろいのは、個人が活躍するだけではありません。この古墳をつくらせた指揮官たち(おそらく役人でしょう)、その指揮の下で働かされていた庶民たち、その庶民のなかでも技術をもった人、もたない人、その中にはこの古墳の形式の由来を知っていた渡来人もいたかも知れません。そうした人々が全体として、この古墳にかかわりをもち、その作成に貢献したのです。

 この人々の行った労働は、石のカラト古墳の石組みの一つ一つ、版築の一層ごとに彼等の汗と一緒に刻み付けられています。このような彼等の労働を一つ一つ分析し、検討していって、彼等全体が働いた内容、社会全体の歴史の流れのなかではたした役割を明らかにすることも大切で、これも興味深いことではないでしょうか。そのためのデータは発掘調査でかなり得ることができました。しかしそのデータの分析はなお今後の仕事として残されています。他の数多くの石棺式古墳との比較検討もしなければなりません。気の永い話しですが、将来に希望を託してコツコツと調べる以外に手だてはありません。

 この原稿は、京都府教育委員会発行の「奈良山-Ⅲ」という報告書から素材をとりました。

図もその転載です。またカラト古墳の系譜については飛鳥資料館学芸室長猪能兼勝さんの「飛鳥時代墓室の系譜」奈良国立文化財研究所「研究論集切」所収を参照してその所説にしたがって記したものです。

   平城地区の地質について        松村 茂樹

 平城地区は奈良盆地の北縁にあり、その北方には、木津川の河谷平野と八幡から田辺、枚方にまたがる丘陵が続いている。当地は、今ではかなり造成が進んでいて、平坦化されている所が多いが、その前は北方の丘陵と同じように、なだらかな丘陵地形を呈していた。この丘陵の地質は、造成工事中の崖面(切取り面)に見られるように砂や粘土あるいは砂利層から成っていて、多くの箇所でほぼ水平に重箱のように重なっているのが遠くからでもよくわかる。

 この土砂はいつ頃ここに堆積したものであろうか。一般に砂漠地帯等や氷河の発達する地方をのぞいては、陸地は雨水や川によって侵食を受け、土砂であれ、岩盤であれ少しずつ削りとられて海へ運ばれる。したがって火山の噴出によって生じた陸地以外はすべて水の中に堆積したものであるから平城も昔は湖か海の時代があったのである。ではこのような土砂が堆積したのはいつ頃の事であろうか。近年、全国各地で造成工事が盛んに行われるようになったが、これに伴って岩盤よりも新しい第4紀層と呼ばれている地層についての研究が進み、とくにC14法と呼ばれる炭素の放射性同位元素を利用した方法によって、地層が堆積した年代がかなりの精度をもって測定できるようになった。

 その結果、平城の地層と同じ時代の地層が各地の丘陵地や盆地あるいは平野の下部に分布していると、およびその時代は古いものでは約200万年前にさか上り、新しいものは数万年ということが明らかになった。この期間は氷河期と呼ばれる時代で、例のマンモスが生活していた時代でもある。そのうち奈良盆地周辺の丘陵を構成している地層は古いものでは約120万年前が確認されており、そこにはMa.Oと呼ばれる海成の粘土が存在している。海成の粘土層は一枚だけでなく全部で12枚(新らしい地層まで含めて)確認されていて非常に広い範囲に連続して分布しているので、これをもとにすると各地方の地層の堆積環境がよく比較できるのであり、他に広城に特定の時期に分布する火山灰層とあわせて鍵層として使われている。またこの古い一連の地層は奈良盆地で約50万年前まで続いており、その間は当地を含めだ奈良盆地は広大な湖であった。また西の大阪平野から瀬戸内海へ連ながる海水域であったことがわかっている。 

 この地層は大阪層群と呼ばれており、古いものは200万年前の鮮新世から新らしいものでも更新世にまたがっていて従来は洪積層と呼ばれているものとほぼ同じものである。                         

 その当時は、西の生駒山地は今ほど高くはなく、また北の木津川河谷平野は逆に今の奈良盆地より高位にあり、古奈良湖(水域であった今の盆地の区域を言う)へは東の主に古木津川(必ずしも今の木津川の流路とは同一ではない)によって運ばれた土砂が厚い地層となって形成されていった。

 木津川の上流域である東の山地は主に領家花崗岩が広く分布しているので、古奈良湖にもたらされた土砂には花園岩を構成している石英・長石・黒雲母(キラキラと金色に光っている薄片)等の鉱物から成る粒子が多い。また粒の大きい砂利は花園岩とは異っていて、非常に硬く、かつ表面がつるつるに円く磨がかれて、色も白・灰・赤・青灰等 様々である。この岩石はチャー卜と呼ばれるもので、ほとんど石英から成っていて風化に対する抵抗力が大きいので、もとの花崗岩が砂や粘性土になってもチャートはより大きい粒として残っているのである。この岩種も木津川水系の主に北方の山地に分布しており、今から2~3億年前(古生代)のものであるとされている。

 さて、上述したような堆積環境にあった当地域が現在のような丘陵地形に移り変わっていったのはいつの時代であろうか、そのために大阪層群やさらに新しい段丘堆積物の分布の状態の他に生駒山地の花崗岩をはじめとする諸々の岩石の状態、およびそこに走っている断層についての詳細な調査がいろいろな機関によって実施され、その結果では、約20~30万年前から広い範囲にわたって基磐岩(ここでは花崗岩盤)の変位が顕著になり、西の生駒山地は上昇し、古奈良湖も北の木津川河谷平野や山城盆地に比較して相対的に上昇域へと移り変わっていったものとされている。

 それまで古奈良湖へ流入していた木津川は平城の北で向きを変え、山城盆地へと転じたのである。この大きな地殻変動はその最も動きの顕著な六甲山系に代表されるので、六甲変動と呼ばれているが、その変動のなごりはきわめて微量ではあるが今も続いていると言われている。平城が丘陵地へと変わっていったのも、もちろんこの変動によるものである。

 以上平城というよりも奈良盆地を含めた広い範囲についての記述に及んだが、第4紀の地層の成り立ちに関係の深い要因は、地殻変動による沈降あるいは隆起ゾーンが生じることの他に氷河の成長や衰退によって生じる海水面の相対的な上昇・下降運動を無視するわけにはいかない。周辺の山地からの土砂の供給に加うるに地盤の変動と海水面の上下動という二つの相対的な運動が切り取り面にみられるような縞模様を造ったと言えよう。

(本稿は関西土木技術センターの資料をもとに公団でまとめたものである)

(住宅・都市整備公団関西支社平城開発事務所事業計画課)

   鹿 笛 考            大西 尚明

 ごく最近鹿笛を手に入れました。これを機会に奈良に住む者として、人間と鹿の付合いについて考えて見たいと思います。

 かつて、狩猟採集文化の時代に、緑豊かなこの大地に、春夏は魚貝類を求め、秋は木の実を拾い、冬は鹿猪を追い、あるいは生活に必要な石器・土器を作り自然とともに生きた心豊かな人々が住んでおりました。古代から草食性と群生の鹿は、性質はおとなしく、肉は美味にして、皮革角骨は生活用具と装飾品に利用され、人間とは深い関係を持って来ました。

 昔は鹿が沢山棲息していたことは古事記に書かれており、又銅鐸に現われた狩猟文様を見ると、主な狩猟獣である鹿を弓矢で射る有様が写実的に描かれております。

 鹿をめぐる民俗と神話伝説が沢山あります。愛媛県宇和津彦神社の秋祭りに、鹿頭をつけた子供たちが、胸の小太鼓をトントンとたたき、哀調をおびた歌声と素朴な笛の音の民俗芸能八鹿踊りを見ることが出来ます。又、岩手県では約千年の歴史を持つ鹿踊りがあります。春日神社では鹿を神使としていることは有名であります。山城の大原神社、安芸の厳島神社の神鹿、諏訪信仰における鹿頭の神供等があり、鹿は霊異ある動物として信じられて来ました。一方鹿島の地名は各地にあり、秋田の男鹿半島、宮城の牡鹿半島、鹿野、鹿谷、鹿越、鹿追等があります。

 狩とは「鹿狩り」を意味したことは当然です。我が国土が鹿の繁殖に適したところであったことは疑いありません。

笛鹿猟では、秋の発情期に雌鹿の鳴き声のような「ビビッ」と響く鹿笛の音につられて、雄鹿が何頭も突進してくるところを弓矢で剔とめられたようです。鹿笛の音は鹿にとっては悲しい笛の響きでしよう。

 擬音を用いての鳥獣の捕獲は、インドネシア、アマゾン川の奥地の原住民の鳥笛にも見られます。

 笛は鹿の角、又はヨシブの木の瘤などで作り、鹿の胎児の皮、或いは蛙の皮などごく薄い皮を張り、草笛のように一端を湿して口にあてて吹き、雌の鳴き声の響きを出します。(図1)

 アイヌにはイレテップ(irettep)という鹿を呼ぶ笛があります。鹿笛と同じく雌鹿の声を摸倣して雄鹿をさそって射るのですが、発音体には鮭の皮、鹿の耳の皮、胎児の皮を使うようです。

イレテップの音につられて雄鹿が興奮して突入して来る光景が目にうつります。(図2)

 本土の鹿笛とアイヌのイレテップの形は凸字形と吹き方は同じでありますが、その関係は知るよしもありません。

 昔、ここ高野原に鹿が沢山おり、春日山の尾根からのぼる月、その光に照らされた鹿たち、彼等の嗚く声が風の流れとともに聞えたことでしょう。

こうした情景がロマンチックに私の心に投影いたします。長皇子が万葉集に残した歌の中に、「秋さらば 今見るごと妻ごひに 鹿嶋かむ山ぞ 高野原の上」(巻1~84)があります。

 日本人独自の風土から生まれた美意識と、心に響く音の感受性との調和が表現されております。

音楽においては筆曲吉沢検校の「秋の曲」の中に「山里は秋こそ ことにわびしけれ 鹿の嶋く音に目をさましつつ」があります。又尺八曲琴古流の本曲で、尺八二管のかけあいで吹奏する「鹿の遠音」(中学校鑑賞教材)は宗教性や精神性を第一義とする本曲の中では、最も親しみやすく、山里で遥かに聞く雌雄鹿の鳴き交す鹿の声を描写した名曲ですが、秋の情景を彷彿させる味いが感じられます。別に鹿の雌雄の仲睦まじい情交の叫びであるともいわれます。その面影がうかがわれます。

 時は流れ、時代とともに、自然は激しく変わり、社会と価値感が変化して来ました。

 鹿笛の語感から何かロマンチックに感じられますが、その音には鹿の悲しい物語があります。

 中国の秦の趙高が、鹿を指して馬と云った故事によって「馬鹿」の熟語が出来だようです。鹿は人間の餌食、狩の獲物、歌、音楽、踊り、神鹿、観光となり、ある時には鹿害裁判になっております。人間は勝手なもので、馬鹿を見ているのは鹿そのものであり、全く迷惑な話しです。

 今では奈良公園飛火野で観光のために、ホルンで鹿寄せが行なわれておりますが、一度この鹿笛で鹿を寄せて見たいものです。      (平城山民族楽器研究所)