層富No30号   2013年8月発行

表紙について

 文化協会の恒例行事、秋の文化祭で講演会が、執り行われます。「園芸の会」にとっては、壇上に花を飾ることは、講師の先生に対する礼儀の初歩として、とりわけ嬉しいお役目です。

晴れの舞台ですから、皆さんに元気なオーラを感じて頂けることを念頭に置いて、花入れは唐物籠、季節を実感できる照葉、中心には黄金檜葉、その前にフォックスフェイス、大菊など、遠くからでも、一本筋が通っていて、端正な花に見えることを心掛けました。

 高の原駅の改札横のボックスに、三十年以上、一日も休まず、駅を利用なさる皆さんにお目にかけている花と、活けている気持ちは同じです。

「花からのオーラが出ている作品にしたい。」この一念が八十才の私の生き甲斐です。花屋さんに無い花は、自分で育ててでも、見て

                            頂きたいと思っています。

                            活け花は、日本の文化そのものです。

                            今後も文化協会と共に頑張っていきたいと思います。

                                      写真と文   園芸の会講師 北村 孫衛

30周年記念講演会 「魅惑する飛鳥」文明開化を告げる遺産群

                             東京学芸大学名誉教授 木下正史先生

 ご紹介いただきました木下です。

 30年ほど前に「飛鳥の水時計」と題して話をさせていただいて以来、久しぶりに機会を作っていただきました。 今、奈良県が中心となって、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の世界遺産登録に向けて努力が傾けられています。

 私は登録推進専門委員会のまとめ役を務めています。世界遺産に登録されるには、まず「飛鳥・藤原」が「顕著な普遍的価値」をもつ資産、つまり人類が共有すべき、かつ世界に他に例のない豊かな価値をもつ資産であることを証明しなければなりません。 

 登録に向けての取り組みは、「飛鳥・藤原」がもつ多様な価値を掘り起こし、またその価値を鮮明にしていくことでもあります。本日は、「飛鳥・藤原」の遺産はどのような価値をもっているのかを中心に、お話したいと思います。

 「飛鳥」というと、皆さんは南北2㌔、東西400㍍ほどの狭い飛鳥盆地を思い浮かべるのではないでしょうか。確かに、飛鳥時代の宮都は飛鳥盆地を中心に営まれました。ですが、もっと広く、北は耳成山のあたり、東は阿部・山田のあたり、南は高松塚古墳やキトラ古墳がある桧隈や南淵、西は畝傍山のあたりまでの東西5㌔以上、南北8㌔ほどの広域が、飛鳥と一体の歴史を歩んだ地域だったのです。

 藤原京は新益京と呼ばれましたが、飛鳥人は藤原京を飛鳥の西北方に広がった都と理解したのです。飛鳥・藤原地域の地下はすべて遺跡です。かつ遺構が重層しており、一つの巨大遺跡といってよいでしょう。

 さて、「文明開化を告げる遺産群」という題を掲げました。飛鳥・藤原京の時代は、明治の「文明開化の時代」にたとえることができるからです。当時の為政者はこのことを明確に認識していました。大化の薄葬令の中に、古代中国の知識を借りながら、大きな古墳を作り、多くの副葬品を納めることは、非文明の愚俗で、国家を作り上げるには、愚俗を廃棄しなければならない。

 文明化という社会改革が必要だとあります。古墳時代から飛鳥時代への時代をどう理解すべきなのかを、私たちに教えてくれます。 飛鳥・藤原京の時代は、588年に最初の本格的寺院・飛鳥寺の造営を始めてから、710年に平城京へ遷都するまでの約120年間です。この時代は、激動する東アジア諸国との豊かな交流を通じて、政治・社会制度、技術、文化を積極的に取り入れながら、国づくりを進めていった時代でした。伝統的なものと融合を図りつつ、質的転換をとげていった時代です。飛鳥・藤原地域に良好な形で残されている遺産は、文明国家を作り上げていく過程を詳細に語ってくれる資産なのです。まずこの点に大きな価値があります。また、3世紀の 卑弥呼の時代以来、300年以上続いてきた「倭国」から、「日本国」の国号を名のるようになり、君主も大王(オオキミ)から「天皇」と称するようになります。

 質的転換の時代といいましたが、「革新」と伝統の「継承」という両側面があります。他の国にはない日本らしい特徴の根源といえるでしょう。伝統的なものの代表には、大嘗祭、山や大木などに対する自然崇拝、掘立柱式檜皮葺きの宮殿、歴代遷宮などがあります。大陸から受容した新文化の中で重要なのは、東アジアの共通語である漢文と漢字活用の文化の受容でした。

 漢字を日本語を表記する道具として操る文字文化が磨かれていきます。そして政治の道具や命令・情報の伝達の道具として、また知的活動の道具として浸透して、『万葉集』など文学作品まで生み出していきます。

 飛鳥・藤原の地は日本国誕生の地であり、その記憶をとどめる唯一の場所です。この時代に形づくられた文化は、日本文化の基層となって、今も脈々と息づいています。私たちの重要な原点が飛鳥・藤原にあることを見つめ直さなければなりません。

1、古墳文化(時代)から飛鳥文化(時代)へ

 前方後円墳は3世紀中頃から300年以上にわたって続いた倭国という連合国家の政治の象徴でした。前方後円墳による大王墓は、飛鳥の西方にある見瀬丸山古墳(310m)を最後に 消えてしまいます。6世紀末の推古天皇の頃には、大王墓は一辺60mほどの方墳となります。隋・唐の方墳による皇帝陵の影響です。それは推古天皇の薄葬政策によるもので、全国各地へ及んでいきます。ちなみに、見瀬丸山古墳は推古天皇の父欽明天皇と母堅塩媛の墓と考えられます。7世紀中頃、天皇陵は八角形墳を採用するようになり、8世紀初頭まで続きます。斉明陵(牽牛子塚古墳)、天武・持統合葬陵(野口王墓古墳)、文武陵(中尾山古 墳)などが代表的なものです。八角形墳は中国の政治思想の影響を受けて大王権力の絶対化に向けて創出されたもので、墳丘は30~40㍍ほどと大きくはありません。

 遺体を納める横穴式石室の変化は墳丘の変化とはずれがあります。6世紀後半から7世紀前半には、自然石の巨石を積みあげた巨大横穴式石室が盛行します。石室内には家形石棺が安置されます。石舞台古墳がその代表です。7世紀中頃、切石積み横穴式石室へと変わ り、やがて小型化していきます。7世紀後半~8世紀初頭には、百済系の石棺式石室が盛行するようになり、漆塗木棺に遺体を納めて石室内に運び入れるように変ります。牽牛子塚古墳、高松塚古墳、キトラ古墳はその典型例です。副葬品もわずかとなります。

 陵墓は飛鳥西南方の檜隈、真弓などに集中して陵園が成立します。終末期古墳は谷間の丘陵南斜面に、陰陽五行思想(風水思想)に基づいて営むようになります。高松塚古墳やキトラ古墳のように、石棺式石室の壁や天井に、四神図、日月・天文図、人物群像などを彩色で描く壁画古墳も登場します。中国・高句麗などの四神思想、天文思想の影響で、密接な交流を示す物証です。このように、飛鳥・藤原京の時代は倭国の象徴であった古墳文化が変容し、衰退し、終焉する時代です。伝統文化の代表である古墳文化が変容していく過程は、「文明化」の模索の過程を詳しく物語ってくれます。

2、宮殿構造の変遷

 宮殿の構造は、大王(天皇)権力が絶対化していく動向、つまり国家の形成状況や官僚制の整備状況と深く関わっています。初期の推古天皇の豊浦宮・小墾田宮から7世紀後半の 斉明天皇の後飛鳥岡本宮や天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮へ、そして藤原宮へ至る宮殿構造は、天皇の住居と政治機能が未分化の形態から、政治的機能が分離して朝堂院が確立し、官衙が整備されていく過程をたどります。

 推古天皇の小墾田宮は、南に朝堂・朝庭があり、北に内裏が連なる構造です。後の宮殿へと引き継がれる宮殿の中枢部の原型ができあがっています。大化のクデター後に孝徳天皇が難波に営んだ難波長柄豊碕宮は面積46㌶以上と壮大で、中央に朝堂院と正殿、内裏が南北に並び、その東西に官衙群が配置されています。規模・構造ともに画期的な宮殿で、本格的な宮殿の基本形が成立しており、改新政府が目指した政治改革を物語ってくれます。

 656年に斉明天皇が営んだ後飛鳥岡本宮は飛鳥宮上層遺構がそれにあたり、内裏を中心とした内郭と内裏外郭とからなっています。内郭は中軸線上に南正殿と北正殿2棟が並び 、南面は石敷広場となります。正殿群の北方には後宮建物が建ち並びます。672年に、天武天皇が営んだ飛鳥浄御原宮は後飛鳥岡本宮を引き継いだ旧宮と、天武天皇が建てたエビノコ郭と大殿などの新宮から成っています。エビノコ郭は内郭の東南方にあり、大垣で囲んだ中にエビノコ大殿が独立して建っています。間口が9間、奥行が5間の高床張りの飛鳥最大の宮殿建築です。天武紀に見える大極殿と考えて間違いありません。飛鳥浄御原宮は、大極殿の成立、内裏正殿の機能分化、内裏外郭に役所を配置するなど、画期的な宮殿でありました。とはいえ、面積は10数㌶ほどでしょう。大極殿も未成熟です。

 飛鳥浄御原宮までの飛鳥の宮殿は、もっぱら伊勢神宮の社殿のような掘立柱建物で、屋根には桧皮や板などを葺いた伝統的な建物でした。飛鳥の宮殿の大きな特徴です。

3、官僚制の整備と役所

 飛鳥の宮殿は、天皇の住居と天皇が政治を行う殿舎を中心に、天皇の日常生活を支える官衙を付設する程度のものでした。官位制は推古朝の12階制から次第に細分化して、天武朝には48階制となります。これはとりもなおさず、政治実務をとる官衙が拡充していった状況を示しています。こうした官衙は宮殿の外で、盆地の各所に配置されたようです。飛鳥盆地全体で宮都の機能を果たしたと見るべきでしょう。官衙や宮殿付属施設としては、水落遺跡の漏刻台、飛鳥寺西の大槻の広場や石神遺跡の服属儀礼の施設、飛鳥池遺跡の官営工房、酒船石遺跡の祭祀・儀礼施設、飛鳥京苑池などがあり、いずれも政治を進めていく上で欠かすことのできない重要施設です。

 水落遺跡は、斉明天皇6年(660)に皇太子中大兄皇子が日本で初めて造った漏刻と漏刻台の遺跡です。唐から漏刻と時刻制を導入して、政治の秩序づけを狙ったものでした。官僚層の居住区の拡大や中央の特別行政区としての「京」の成立とも密接に関わり、飛鳥の都づくりが本格化したことをも窺わせます。水落遺跡は律令制下の陰陽寮相当の官衙で、斉明天皇の後飛鳥岡本宮の外、飛鳥寺の西北方に設けられたのです。 飛鳥寺の西には神聖な大槻が象徴となる広大な石敷広場があり、皇極朝から持統朝にかけて、天皇への忠誠を誓う儀式や蝦夷・隼人らの服属儀礼が行われました。水落遺跡の北にある石神遺跡も蝦夷・隼人らの服属儀礼を行う施設でした。須弥山石や石人像の噴水石があり、大規模建物が建ち並んでいました。

 飛鳥池遺跡は酒船石遺跡の北の谷間にあり、金・銀・銅・鉄・ガラスの製品や富本銭などを鋳造した官営工房です。富本銭は径2、4㌢の方孔円銭で、中国古代の五銖銭や開元通宝を手本に作った日本最初の銅銭です。天武12年(683)の銅銭使用命令や、持統8年(694)の鋳銭司任命記事と関わるものでしょう。

 飛鳥池遺跡の谷奥とその南の丘が酒船石遺跡です。丘上には水を流して呪いを行う酒船石や、丘全体を囲む巨大石垣があり、斉明紀にある宮の東山に築いた「石山丘」跡です。北側の谷奥には、小判形や亀形石槽、湧水施設、石敷からなる天皇が道教的な霊水儀礼を行った施設があります。丘の東側では「狂心の渠」跡も発見されています。酒船石遺跡は、斉明天皇の時代に飛鳥の都づくりが大規模に行われたことを生々しく伝えてくれます。

 飛鳥京苑池は南北全長200㍍、東西幅60㍍以上の広大な苑池です。池は直線状の岸辺や 垂直の石積み護岸、底石敷に特徴があり、酒船石類似の導水石造物は、新羅王宮付属の雁鴨池の石造物とそっくりです。斉明朝、天武・持統朝の宮廷付属の苑池で、天武紀に見える「白錦後苑」にあたります。唐の太液池や新羅の雁鴨池には蓬莱島と呼ぶ中島が作られており、苑池は神仙世界を再現して、不老不死を願って造られたものでした。飛鳥時代の苑池は、中国や朝鮮半島から、造園の思想と技術を学んで誕生したものでした。

4、新らしい宗教・知識・技術の受容-文明開化の要素 

 538年、百済聖明王から仏教が公式に伝えられます。588年、日本最初の本格的寺院・飛鳥寺の造営が始まり、百済から造寺博士や瓦博士が派遣され、彼らの指導によって造営が進められます。伽藍配置は高句麗様式の一塔三金堂、屋根瓦は百済様式で、朝鮮半島各地の寺院文化が入り混じって伝えられたことが分かります。寺院は、新たな信仰・思想の場であっただけでなく、学術・芸術、技術集積の殿堂であり、文明開化の拠点でした。初期の仏教や寺院は蘇我氏が主導し、すべて氏寺で、百済様式が主流でした。

 舒明11年(639)9月、舒明天皇が百済大寺を造営します。朝廷が経済的な支えをする官寺の始まりです。最近、百済大寺が磐余の地で発見されました。金堂や塔の規模は飛鳥諸寺を大きく凌駕し、破格の規模を誇っています。塔は文献史料にあるように、壮大な九重塔でした。当時、東アジアの北魏永寧寺や新羅皇竜寺などの国寺では九重塔が建造されました。九重塔は、国家筆頭の官寺、そして鎮護国家仏教の象徴だったのです。国家仏教は大きく発展して、天武9年には飛鳥三大寺制、藤原京では薬師寺を加えて四大寺制となります。文武天皇が藤原京左京に新建した大官大寺では九重塔が造営され、壮大な規模を誇りました。各寺院は東アジア諸国との緊密な文化交流を語ってくれます。

 道教は、陰陽五行、天文、四神の思想など不老長寿を主な目的とした現世利益的な宗教です。推古10年(602) 百済僧観勒が天文・地理・遁甲・方術の書をもたらし、飛鳥初期から本格的に導入されています。酒船石遺跡の亀形石槽は道教的な神仙思想で理想世界を支える亀を象ったもので、「天皇」称号や八角形天皇陵、「大極殿」の呼名なども道教的信仰に基づくものです。道教的な雨乞い儀礼も確認できます。7世紀中頃には、斎串・人形・ 土馬など道教的な祭祀具も登場し、大祓など穢れや病を祓う儀礼に使われました。今も古社で大祓の時に行う「茅の輪くぐり」として伝えられています。

 青龍・白虎・朱雀・玄武を四方の守り神とする思想も中国で紀元前1世紀頃に成立し、東アジア各地に浸透していきます。高句麗では5世紀初頭の古墳に四神図が描かれます。 高松塚古墳・キトラ古墳の天文図、日月図は天文信仰が支配者層に深く浸透していた様子を伝えています。高句麗徳花里2号墳などにも同様の天文図が描かれています。

 学術、科学技術、漢方の医療・医薬、手工業、食生活などの大きな変革期でもありました。斉明・天智朝は遣唐使派遣など唐との交流が最も盛んな時期でした。この時期を中心に、漏刻・天文・暦、水道・噴水、測量などの技術、造園、鋳貨など中国系科学技術が大きく展開していきます。食器や乳製品・うどんなど大陸の食文化の影響も強まります。

5、藤原宮と新益京

 飛鳥に宮都が集中するに及んで、周辺に官衙や寺院、市などが営まれ、役人層も集住するようになり、「京」が成立します。「京」の存在を示す最初の記事は斉明5年(659)条です。壬申の乱の記事には「倭京」や「古京」の語が見え、天武5年(676)以降は「京」「京師」の語が頻出します。天武13年3月条に「天皇、京師を巡行して、宮室の地を定めたまふ」とあり、藤原宮遷都と宮の場所が正式に決ります。藤原宮などの下層では、碁盤目状に通された街路や街区が発見されます。倭京に伴うものです。

 天武天皇は国づくりを強力に進めていきます。外国に対して「日本国」を名のり、君主を「天皇」と呼ぶようになります。浄御原令の編纂も始まります。皇位継承の大嘗祭、伊勢神宮の式年遷宮や斎宮、官寺制、貨幣制、記紀の編纂などなど。こうした革新的な政治を円滑に行うために、その中心舞台として建設を計画したのが藤原宮と京でした。

 藤原宮は1㌔四方、面積85㌶に及ぶ巨大宮殿です。中心に政治の中枢施設である大極殿 と朝堂院があり、その北に天皇が暮す内裏が位置し、これらの東西両側に官僚が事務をとる官衙が配置されます。官衙域の面積は60㌶にも及びます。こうして機能的な宮殿が完成します。大極殿・朝堂院の殿舎には宮殿では初めて礎石建ち瓦葺きの大陸様式の建築が採用され、律令国家の政治の中心舞台として本格的な宮殿が出現したのです。

 藤原宮を中に条坊制による計画都市・新益京が作られます。新益京は倭京の条坊の基本を踏襲して、拡大・整備して建設されます。街区は「林坊」「軽坊」「浦坊」「小治町」など飛鳥時代以来の地名で呼ばれました。新益京は飛鳥で育まれた伝統を基礎にできあがったことを物語っています。最近では、新益京10条10坊説、つまり5、3㌔四方の四角い形で、京の 中央に藤原宮を配置する「周礼考工記」が記す理想の都城を実現したとする説が有力化しています。私は賛成していません。

 藤原宮は東西と北に香久山・畝傍山・耳成山の大和三山があり、南側を斜めに飛鳥川が流れています。藤原宮地は、天皇が陰陽師や工匠を遣して、都の適地かどうか視占させて決定しています。大和三山と飛鳥川が四神に見立てられ、これらに囲まれた藤原の地が、陰陽五行説に適った永遠の理想の宮地と視占されたのです。こうして持統8年(694)、藤原宮への遷都が実現します。藤原宮・京は「天武・持統天皇の理想の都」だったのです。

 文武5年(701)元旦の朝賀儀式は大宝律令の完成を祝うかの如く盛大なものでした。大宝律令は浄御原令を基に、行政法の令と刑罰法の律を伴う体系法典として完成しました。法治国家の成立です。この年、「大宝」の元号が採用されます。「平成」に続く元号制の始まりです。大宝元年は本格的な宮殿と都城を完成させ、律令を作り上げた画期的な年でした。

 数年前、藤原宮の大極殿正門前で幢竿支柱跡が発見されました。『続日本紀』の文武5年正月朔日条に「天皇御大極殿受朝、其儀於正門樹烏形幢、左日像青竜朱雀幡、右月像玄武白虎幡、蕃夷使者陳列左右、文物之儀於是備矣」とあり、大極殿正門前に、真ん中に烏像の幢、東側に日像と朱雀・青龍の幡、西側に月像と白虎・玄武の幡を立てて儀式が行われたのです。発見遺構はこの時の幢幡跡でしょう。元旦朝賀の儀式は天皇が貴族や臣下から年賀を受け、君主と臣下との関係を確認する即位式と並ぶ最重要の国家儀式です。「文物の制度がここにすべて整った」と、新たな時代の幕開けを高らかに宣言。世紀の祝典が目に浮かぶようです。令制の元旦朝賀や即位儀式では、大極殿や正門前に7本の幢幡を立 てる制度が確立します。

 さて、周王朝の人々は、天子(天皇)は天界の絶対神・天帝の子として天命を受けて地上の統治を代行すると考えました。天子の宮殿は、天帝の住居である「北極星」に擬えて地上に再現、つまり宮殿は天界の星座・宇宙を象ったものでした。太極殿(タイキョクデン)や大極殿 という宮殿正殿の名は、北天の中央に輝く太極星(北極星)に基づいています。

 藤原宮の大極殿は唐長安城の太極殿に由来するものです。瓦葺の本格的な大極殿は、元旦朝賀や即位儀式を行い、天皇と国家の威厳を整える宮殿正殿として出現したのです。大極殿前に日月、四神の幢幡を立てて行う天皇の大儀は、古代中国の道教的な宇宙観である陰陽五行説に基づくものだったのです。

 高松塚・キトラ古墳の四神、星宿、日像・月像の壁画は、死者の不老不死を信じて描かれたのです。壁画は元旦朝賀や即位の儀式で使う宝幢と全く同じ内容です。両古墳の壁画は、古代国家が飛鳥・藤原で確立した様子を分かり易い形で伝えており、国家誕生の激動の時代が目に浮かぶようです。

北陸地方紀行文 「飛鳥を愛する会」の秋季現地講座に参加して

平成24年10月12・13・14日 堀口 千秋

 JR米原駅東口で、東京学芸大学名誉教授の木下正史先生と事務局の人に出迎えられ、お弁当と3日間のレジュメの入った大きな封筒を頂いて、西濃華陽観光バスに乗り込む。11時出発。 先ずは木下先生のご挨拶の後、奈良女子大名誉教授 坂本信幸先生、龍谷大学教授 岡崎晋明先生、関西大学教授 米田文孝先生の紹介。まもなく不破の関跡に到着。

 資料館見学の後土塁の残っている南面、関守の館跡など見て回りバスに戻る。12時を回ってぼつぼつお弁当を広げる人が多くなったので私達も習う。

 20分くらいで美濃国分寺へ着く。後背に小高い山を背負い広大な土地に国分寺の伽藍があったのを想像してみる。七重塔があったという基壇、講堂跡の礎石、さんさんと秋の日の降る遺跡に佇んでいると1300年前の光景が浮かぶ。昭和43年から始まった発掘調査に当時奈文研にいらっしゃった木下先生も参加されていたそうで、懐かしそうなご様子だった。近くに関ヶ原の戦の陣地があったり壬申の乱の大海人皇子の野上行宮があったり、東山道や中山道に面したこのあたりはさぞ賑わっていたことだろう。大垣市歴史民俗資料館で美濃国分寺の発掘資料を見学して説明を受ける。

  すぐ近くの10基以上も点在する古墳の中で、最も大きい昼飯大塚古墳を見学。復元工事の最中で、後円部の葺石を赤土で一つずつ固めながら丁寧に並べていた。石はもともと古墳に葺いてあったものだそうでこぶし大より少し大きい。今後設置予定の円筒埴輪は、市民も参加してボランティアで作るのだとか。

 後方の山は、削り取られているが、昔から良質の石灰が産出するそうで鉄鉱石も豊富な土地柄、鉄剣も数多く出土している。鉄の神様南宮神社も近くにあるし多分それらを掌握していた豪族が被葬者だろう。米田先生は入試の準備があるそうでここからお帰りになった。バスは高速東海北陸自動車道に乗り高岡に向かう。

 途中ひるがの高原SAでの休憩を挟み3時間半バスのガイドさんは、通過する町の名所旧跡やエピソード、この高速の3つの日本一など尽きぬ話題で楽しませてくれた。

 高岡市内に入って運転手さん道に迷い少し到着が遅れ18時40分呉羽山の観光ホテルに着いた。すぐに大広間での夕食。20時から会議室のような部屋で夜の講義が始まる。坂本先生は「越中万葉故地」という演題で、犬養孝の「万葉の旅」から「越路の雪」「越中国庁地」「奈呉の江」「石瀬野」など、大伴家持の歌をあげて説明なさった。21時から木下先生。

 律令国家の国司の構成や仕事、国分寺・国分尼寺の成立や北陸地方の古墳、特に四隅突出型墳丘墓や渤海国との関わりについてのお話があった。たっぷり2時間講義を聞き、それから温泉に浸かり就寝。1日目が終わる。

 第2日目 昨夜2時半まで玉置さん渡辺さんと3人でおしゃべりして、5時20分起床、朝の温泉に入る。6時半バイキングの朝食。8時バスで出発。30分で奈呉の浦へ着く。

 今は埋め立てられ海岸線は少し先。放生津八幡宮で家持の歌碑“あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣りする小舟漕ぎ隠る見ゆ”境内に家持を祀る祖霊社がある。八幡宮に木の狛犬があったそうだが、残念ながら私は見落とす。バスに戻って射水川(現在は小矢部川)を渡り舗装された万葉ラインをたどって二上山に登る。

 奈良の二上山と同じ名の山だが、どこから見てもはっきり2つの峰が解る奈良の山と違って、2つに見える場所を探さねばならない。西山の頂上は中世の守山城跡で、高さは高岡の最高峰でも274mと258m。眼下に射水川(小矢部川)と庄川が、うねうねと蛇行して流れ昔の暴れ川の面影が偲ばれる。射水市も氷見市も眼下に展望、家持が住んでいた伏木の館も高台の端にある。山を少し下ったところに家持の大きな銅像が立っていた。「イケメンの家持だね」先生2人家持と並んでパチリ。 

 山を下り越中国守館跡へ。発掘調査の遺物から多分ここだろう。地名も古国府(伏木町)という伏木台地に立つ。

 “朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唄う舟人”この台地のすぐ下を射水川が流れていたようで家持が朝床の中で舟人の唄を聞いたのだなあと感慨ひとしお。このあたりには「かたかご」と付いた建物が数多く見られる。

 “もののふの八十娘子らが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花”溝蓋にもカタクリの図柄。 少し離れた場所に国府跡の勝興寺。周囲に濠や土塁をめぐらした豪壮な城郭造りの寺。重要文化財の本堂の見事さ大きさ驚くばかり。勝興寺の七不思議の一つ「屋根を支える猿」はどれだろうと皆で軒を見上げて探した。梁を支えている四つ角にあった!あった!どれどれ?と賑やかな声。

 本堂南側に「越中国庁跡」の碑、裏側に「越中国守大伴家持の歌」が刻まれている。“あしびきの山の木(こ)末(ぬれ)のほよ取りてかざしつらくは千歳寿(ほ)くとぞ”  ほよ=寄生木本堂の北側に大きなつままの木があったが、工事中の囲いで行く事ができなかった。

  バスに戻って高岡市万葉歴史館に入る。ビデオを見て昼食。館内見学。坂本先生はここの館長で丁寧な説明を受ける。古写本のコーナーに一番古いと伝えられる桂本万葉集・金沢本万葉集の複製があり興味深く眺める。館はとても広く四季の庭が作られ自然の美しさを堪能できる癒しの場所だ。そこかしこに見合った彫刻も、切り絵の額の数々も趣がある。

 万葉歴史館をあとにして、越中国分寺跡を車窓から確かめ、雨晴海岸へ向かう。バスを降り海岸の護岸石積みされた波打ち際まで歩く。右手の海の彼方に立山連峰が見えるはずと目を凝らしたが雪山か白雲か定かでなく心眼で見ましょうとの話。

 左手の義経が雨宿りした洞窟のある雄島、目の前の海中にある形の良い松の植わった雌島、静かに石垣を叩く波の音、磯の香に眠気を誘う。磯辺につままの木(タブの木)を見に行く。“磯の上のつままを見れば根を延べて年深からし神さびにけり” 続いて氷見市にある日本海側最大で全国でも10指に入る前方後方墳を見学。

 「柳田布尾山古墳」は全長107,5mの大きな古墳。埴輪や葺石は見られないが、前方部のみ周濠があり、その土を盛土にしたらしい。出土土器から弥生時代の末か古墳時代前期のもの。陸橋を渡って古墳に登る。後方部墳頂に埋葬施設。盗掘によって破壊されているが、粘土層に覆われた木棺があったそうだ。墳頂部の中心ではなく西側に片寄っているから、もしかしたらもう1基埋葬されているかもしれないと木下先生の話。後方部の東側に円墳がある。

 「陪塚ですか」と木下先生に尋ねたら、「この前方後方墳より先にできた可能性がある」とのご返事。墳頂から南に二上山がすっくと立ち、北に富山湾を見下ろす景勝の地。海上交通を掌握した王者の墓だろうか?この付近には、縄文前期から中期にかけて大規模な朝日貝塚もある。万葉集に「布勢の水海」と家持が詠んでいる所は、埋め立てられ水海の面影なし。唯一その名残といえる十二町潟水郷公園に犬養孝先生の墨碑が立っていた。

 “布勢の海の沖つ白波あり通ひいや年のはに見つつしのはむ”松田江・英(あ)遠(お)浦を車窓から眺めて富山県に別れを告げ石川県に入る。七尾市の中心付近にある能登国分寺展示館を見学。南門と両側に少し築地塀が復元してある遺跡を歩く。塔の心礎が出土し、その穴から考えると五重塔ではなく三重塔だったのではないか?根岸さんという大正15年生まれの方はメジャーを出してこの穴を測るという熱心さ。この穴に溜まった水をつけると痛みが和らぐと地元の人はお参りに見えるとか。

 発掘の終わった金堂跡に礎石が整然と並んでいた。秋の日は短く夕焼けの空を愛でながら1時間バスで走って18時20分羽咋の能登ロイヤルホテルに到着。夕食を済ませ20時からの講演は、昨日夕方合流なさった三重の皇学館大学教授の大島信生先生。

 万葉集の中の「能登国の歌三首」の解説。“梯立の熊木のやらに新羅斧落とし入れわしあげてあげてな泣かしそね………‥やら=魚を捕るヤナの訛語、または泥海ないし沼沢の意わし=囃子言葉、現在のワッショイあげてあげて=河毛弖河毛弖 あげてあげてならしゃくりあげて、かけてかけてなら心に掛けにかけて。

(根岸さんのお話。犬養孝先生と薬師寺の高田好胤さんが能登の机の島を見に来て、前年亡くなられた犬養さんの奥さんのために好胤さんがお経を唱えられたそうだ。犬養先生は奥さんを偲ばれしゃくりあげて泣かれた。

 その話を思い出して講義を聞きながら涙が止まらなかった。だから私は、あげてあげてはしゃくりあげての説を取りたい。)21時から岡崎先生の講演。昨日の木下先生の四隅突出古墳のお話を広げご自分の説を述べられる。

 お二人に討論していただくと面白いだろう。来年はそういう企画にして欲しいなあ。(^^)製塩土器のお話や渤海国と渤海使の話など22時を過ぎても熱心に続けられてブーイング。早くお風呂に入って床に就きたい。

 第3日目(10月14日) 最終日も8時出発。能登半島の背側志賀町から半島を横断。

 七尾湾の能登島大橋を渡って能登島へ。須曽集落の裏山にある須曽蝦夷穴古墳へ登る。7世紀中頃の方墳で径25m高さ4,5m雄穴雌穴の2穴あり南側に開口。2つの横穴式石室が同時期に造られている。玄室の壁は割石を積み重ね四隅の石を次第に三角状に持ち送りし天井石は大きな石1個で覆っている。玄室の奥は1段高くして棺台がしつらえてある。雄穴はT字型、雌穴は逆L字型の玄室。

 入口側南面は列石を1尺くらいの高さで巡らし東側に曲がったところにも続いている。羨道部には、床に切石を敷き詰め壁には玄室の壁と同じく割り石を横にして積み重ねてある。通常の横穴式とは異なり羨道部の幅が広く長さが短いのが特徴。南に朱雀で海が広がり北に玄武で山の高みがあり四神の風水に叶った地形であることがよく分かる。能登島には古くから多くの遺跡があり、縄文前期の約6千年前からの竪穴住居跡も見つかっている。

 島の各地に古墳も点在し横穴式が多い。その規模はこの須曽蝦夷穴古墳以外は径10m以下の小規模の古墳が大半である。この静かな山あいに眠る被葬者は誰だろうか?「能登名跡志」によると「昔蝦夷の大男とて異人の住みし洞なり」と蝦夷穴にまつわる伝承を載せている。出土品に象嵌を施した鉄製の大刀などがあるのを見ると渡来人に違いないだろう。

 山を降り能登島ツインブリッジを渡る。「あれが机の島です」ガイドさんの声に一斉に眼下の小さな島を見る。能登自動車道を走り柳田ICから北陸屈指の気多大社(能登一の宮)に参る。名の通り多くの気が集う神社で、数々の試練を乗り越えて恋を成就させた伝説のオオクニヌシノミコトが祭神なので縁結びの神社として有名。本殿の背後に鬱蒼とした原生林があり「いらずの森」と書かれていて立入禁止。能登海浜道の計画にあたり発掘調査が行われ、寺家遺跡の発見。

 大量の土器や祭祀関係の遺物が出土して古代の気多神社との関わりが明らかになってきた。砂の侵食で古代気多神社と現在の氣多大社の位置は変わっているが、律令国家にとっても重要な祭祀を行なっていたらしい痕跡は注目したい。

 万葉集にも大伴家持は748年越中国司として着任後、氣多大社に参詣していたことが記されている。“しおじから直越え来れば羽咋の海朝凪したり舟楫もがも” 家持は富山県の氷見から志雄を通って羽咋に出た。

 この穏やかな海を漕ぎ渡って行く舟や楫があればいいのだが…。すでに能登でも指折りの神社であった気多神社へ真っ先に向かうのだが、当時まだ干拓されていない広々とした邑知潟を目の前にしてこのような歌を詠んだのだろう。氣多大社をあとにしてバスは羽咋の海辺を走る。長い砂浜を車で走れることで有名な千里浜ドライブコース8キロをゆっくり走る。360度展望の日本海、穏やかな波が打ち寄せる波打ち際の固く締まった砂地を走る爽快さ。海を渡ってくる秋風の心地よさ。至福の時を頂いて感謝。

 北陸自動車道に入って金沢・小松を過ぎ福井ICを下りて一乗谷朝倉氏遺跡資料館に立ち寄る。時間がないのでさっと資料館を見て回り、遺跡復元町並みの見学。朝倉義景の居館跡へ回る。後ろは山頂に城のある山、三方に濠と土塁を巡らし堅固な造り。

 西に濠を渡って唐門があるが、これは義景の菩提を弔い建てられた松雲院(江戸時代中期)の山門を移築。建物は17棟、御常御殿を中心に花壇や庭園、主殿・会所・茶室・台所・厩・湯殿・蔵など礎石が整然と配置されている。

 客殿の前の庭園は山の水を滝に集めて落とし清らかな池に奇岩を配置し京文化を模した造り。最前見た町家の1軒の狭さに比べこの広大さは驚異。

 最後は敦賀の気比神宮。気多へ参ったので気比も……?先ずは土公遥拝所へ参る。

 土公は気比の大神降臨の地で、切石で化粧した八角形の土檀。土公は陰陽道の土公神の異称で、土を司る神のこと。その場所を動かすことを忌む。この土を撒けば悪神の祟りを避ける事ができるという。

 遥拝所から見ると土公は小学校の中にあり、都市計画で小学校に土地を譲渡され、かろうじて土公と参道だけ残ったとか。日本の3大鳥居というので大鳥井だけは見ておこうと時間を気にしながら境内を走る。予定より少し早くバスは17時5分米原駅に到着。一滴の雨にも降られず、お天気に恵まれ充実した二泊三日の旅を無事終えて解散。