層富No31号   2014年8月発行

表紙について

 文化協会の恒例行事秋の文化祭では、毎年入り口近くに三十号ぐらいの油絵から、6号ぐらいの水彩画、切り絵など数多くの作品が展示されます。絵画好きのメンバーがそれぞれの手法で、それぞれの画風でもって作品作りに励み、また月2回の定例会ではプロのモデルを呼んでのデッサン、クロッキーや静物画制作に取り組み、絵を描く楽しさを満喫しています。

 しかしながら何枚描いても十分に満足できる作品が出来るわけではなく、何十枚も描いてやっと自己満足できる作品が出来るぐらいです。ましてや他人に褒めて頂き、コンクールで賞を戴くとなると、それ相応の努力と技量だけでは無く、何か特別な思いが必要ではないかと日頃思っています。

 昨今の公募展に於いて、問題になっているところもありますが。表紙の絵画は、京都井手町の玉川沿いの桜並木の老木をスケッチし、自分なりにアレンジして作品に仕上げたものです。

 これを私が指導を受けている先生の薦めで、昨年天王寺美術館で開催された第35回IFA国際美術協会の公募展に出展して大阪府教育委員会賞」を受賞した作品です。 桜は日本人の心の中に息づいています。

 今後も文化協会と共に頑張っていきたいと思います。

                                     写真と文   絵画の会  日比野 豊

《巻頭言》

   平城ニュータウン文化協会会長  松村 如洋

 孔子の言葉に、「わたしは十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になって迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人の言葉が素直に聞けるようになり、七十になると思うままにふるまって、道をはずさなくなった。」とあります。(《论语•为政》) ※

 川の流れの様に過ぎ行く、自らの人生と照らし合わせてみると、この教えの実現は容易でないことがわかる。今は、他の人を尊重し、道理をわきまえ、様々な声にも謙虚に耳を傾け、相手の立場に立って考える。

 この孔子の言葉を心に刻み、会員の皆さんと共に文化活動を楽しみながら、多くの知恵を吸収し、人生を更に充実した、価値あるものにしたいと思います。 

※「吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳顺、七十而从心所欲、不踰矩。」(《论语•为政》)

層富第31号発行に寄せて   奈良市北部会館市民文化ホール事務長 今里 元

 この四月から奈良市北部会館市民文化ホールに赴任してきました今里元です。

今までは、なら100年会館で15年間お世話になり、おもに芸術文化事業の企画制作運営に携わっておりました。

 奈良市北部会館市民文化ホールは、今年の7月20日で開館10周年を迎えます。開館十周年を迎えられるのも、平城ニュータウン文化協会会員皆様はじめ、奈良市北部会館を中心とする地域の皆さんのご理解、ご協力、ご支援の賜物だと厚く感謝しております。今後も皆様と共に歩み、支えられ、今まで培ったものを継続させ、さらなる進化を遂げたいと考えています。そして、若い世代、特に小学生から中学生に自分たちの生まれ育った街を愛せるようになってほしいと願っています。そのためには、地域の皆様のご協力のもと、さらなる地域のにぎわいを共に創り、根付かせ、次代を生きる者に継承していける地域の文化芸術活動発展の基地になるべく尽力したいと考えております。

 先日、全国公立文化施設協会の研究大会に参加させていただく機会がありました。その中で「地方における文化・芸術の振興について」と題して、文化庁長官の青柳正規氏と作曲家の池辺晋一郎さんの対談を聞くことができました。

 内容は、日本の文化の在り方や進むべく方向性を示していただいたように思います。皆様にも共有させていただければと思い簡潔にまとめてみました。

「文化とは日常の人の生活慣習であり、その中には、広く芸術(絵画、音楽など)、伝統芸能などが含まれる。それら文化は、一朝一夕には生まれない。なぜならば、中国の歴史は一説には3000年、ギリシャの歴史は紀元前から存在している。日本の場合、天平文化で栄えた奈良時代を基準に考えたとしても高々1300年。まだまだである。

 しかし、それら文化は積み重なり地道に継続して成り立つものである。そして、一人では何もできない。これからは地域力が必要であり地域の人々による芸術文化振興がさらに重要になってくる。2年、3年では何も変わらないかもしれないが、200年後にその積み重ねが必ず活かされてくることを信じて、取り組みましょう。

まずは、2020年東京オリンピックを一つのポイントと考え、それに向けて東京のみならず日本各地でグローバルな連携事業に取り組み、文化芸術でも日本を盛り上げましょう。」

 今後とも地域の文化芸術の発展振興のために、平城ニュータウン文化協会会員皆様のさらなるご理解、ご協力、お力添えを何卒よろしくお願い申し上げます。

平城京の借金証文 庶民を取りまく貨幣経済

奈良大学文学部文化財学科教授  吉川 敏子

 只今ご紹介に預かりました吉川です。昨年ここでやらせて頂きまして「日本の女性天皇」という華やかなテーマでした。おそらくそれを期待しての事と思いますが、今年またご指名頂いたのですが、「平城京の借金証文、庶民を取りまく貨幣経済」という地味なテーマで申し訳ございません。

 今回は、全く有名人が一人も出てきません。多分「これは誰?」という聞いたこともない名前がちょこっと出てくるだけですが、私たち庶民に近い立場の人達の生活ぶりと考えて聞いて頂ければ、多少親近感を持っていただけると思います。日頃、学生に文献史をやる人には、二つ大切なことがあると言っています。一つは、文字が好き。文字を通して歴史を紐解くから文字特に漢字が好きでないとできない。二つ目は人間に興味があること。文字は目的があって、誰かに向けて書かれている。文字を通して彼らが何を言おうとしたのか、何の目的で書いたのか、見極めようという意識がないと、多分歴史を楽しく勉強できないだろう。

  今ここでもメモを取っておられる方がいますが、その文字も、未来の自分に充てたメッセージです。後で読み返す自分のためのメッセージなのです。そういう意味で、書いた人の気持ち、目的を見るような目が必要だと学生に言っています。

この借金証文は、借りる側が自分で書いたものですが、どんな気持ちでこれを書いたのだろうと思いながら、史料の向こうに書いた人を見ます。人間が見えたら、その向こうにその時代の時代背景や歴史が見える。そういうふうな見方が出来れば歴史が面白くなるでしょう。今日のこのテーマも、この文書の向こうに奈良時代の人々とか、その後ろの政治社会を、少しでも覗き見て頂ければと思ってお話いたします。では、レジメと史料に添ってお話しします。

(1)借金についての法 (史料1 養老令雑令 公私以財物条)

 律令という言葉は耳にされたことがあると思いますが、律は刑法、令は一般の法令です。令の最後に載っているのが雑令で、、ここに史料1としてあげた借金に対する規定があります。まず、どんな法律があったのかを、史料を少しずつ区切りながらご説明します(史料はすべて原漢文ですが、書き下し文で紹介します)。凡そ公(くう)私(し)、財物を以て出挙(すいこ)せらば、任(ほしいまま)に私(わたくし)の契(けい)に依れ。官(くわん)、理(り)すること為(せ)ず。出挙とは利息を付けて人にものを貸し与えること。利息付の貸し借りです。それは自由に任意に個々の契約によりなさい。国家は介入しません。

 60日毎に利(り)取れ。八分(はちぶん)が一に過(すご)すこと得じ。四百八十日に過(すご)せりと雖も、一倍(いちばい)に過(すぐ)すこと得じ。60日毎に利息を取るのだが、八分の一を過ぎてはいけない。二か月で八分の一だから一か月あたり十六分の一で、六・二五%。びっくりする高利ですね。四百八十日をすぎても、それ以上は取ってはいけない。

 一倍というのは今の二倍のことです。もともとの元本の部分を数えないので、トータル二倍。二か月ごとに八分の一の利息が付いてくるのですから、少しも返さなければ四百八十日目つまり十六か月後には元本と利息が同じ額に膨れ上がる。その後は利息を上乗せしてはいけない。

 家資(けし)尽(つ)きなば、身(み)を役(やく)して折(へ)ぎ酬(むく)いよ。財産が尽きてしまったら肉体労働で返しなさい。利を廻(めぐ)らして本(もと)と為(す)ること得ず。 

 元本と利息を含めて何%と掛けるのではなく利息は元本に対して掛けていきなさい。

 つまり単利計算です。

 若し法に違ひて利を責(こ)ひ、契(けい)の外(ほか)に掣(ひ)き奪(うば)へらむ、及び出(しゅっ)息(そく)の債(ものかび)に非ずは、官、理すること為よ。 

 法定以上に高利を請求したり、約束以外のものを奪ったり、或いは初めからの担保でない物を取り立てることがあったら、役所が介入しなさい。

 其れ質(しち)は、物(もの)主(ぬし)に対(むか)ふに非ずは輙(たやすく)く売ること得ず。

 担保については、本来の持ち主つまり借りた側が立ち会いのもとでなかったら、容易に売り飛ばしてはいけない。無理矢理取り上げて売ることは出来ない。

 若し利を計(かぞ)ふるに本過(もとす)ぐるまでに贖(つくの)はずは、所司(しょし)に告(ごう)して対(むか)むで売(う)ること聴(ゆる)せ。

 16か月で返さず、利息が元本を過ぎるまで返さなかったら、その時役所に申し出て、立会いの下で売りなさい。

 即ち乗(あま)まれること有らば還(かへ)せ。売って本来の返済額より高く売れた場合は、余った分を本人に返しなさい。

 如(も)し債(ものかび)を負(お)へる者(ひと)逃(のが)れ避(さ)れらば、保人(ほうにん)代(かは)って償(つくの)へ。 

 借金を踏み倒して逃げる人がいたら保証人が責任を負いなさい。

 このように、利息は思いのほか高いのですが、ちゃんと理にかなった法律となっていて、実際この通りに作られた借金証文が残っています。史料2をご覧下さい。 

 史料2 天平勝宝二年(七五〇)五月二十六日山道津守等出挙銭解

 謹んで解し、申し請う出挙銭の事、合わせて銭肆佰文質式下郡十三条卅六走田一町、

 受くるもの山道真人津守、息長真人家女、 山道真人三中

右、件の三人、死生同心にして、八箇月を限り、半倍将に進上せんとす。若し進上せざらば、息長黒麻呂将に進上せんとす。

仍ち状を録し、以て解す。     天平勝宝二年五月二十六日息長黒麻呂

 冒頭の謹んでの下は解(げ)と読みます。解とは、上申文書です。下から上に申し上げる文書に解という言葉を使います。

 全体をよく見ると、右端に何行か読めない字が見えますが、これは全く関係ありません。昔は紙が物凄く貴重ですから、紙は表を使って要らなくなったら裏返し、裏も使いきるのです。

 これもおそらく、借金が返済され、証文としての意味がなくなったあと、二次利用され、貼り継がれたのでしょう。さっき変な文字が見えたところは、紙の継ぎ目のようですね。誰かが後で剥がさないよう、裏に割り書きの形で書かれている。継ぎ目裏書というのですが、それに当たるのだと思います。

 さて本題に入ります。一町もの田を担保にして僅か四百文を借りていることにびっくりしますが、昔の価値観は今と違うのでしょうか。借金をした山道真人津守、息長真人家女、山道真人三中はどんな関係だと想像されますか。多分夫婦と息子、或いは夫の弟かなと思います。

 昔は、夫婦別姓ですから、氏姓の異なる女性は山道真人津守の奥さんで、もう一人の山地真人三中は息子さんか夫の弟さんかなと想像します。ここには保証人もちゃんと出てきます。息長黒麻呂さん。奥さんの親戚でしょうか、保証人になっています。年月日の下に保証人が署名していますので、この保証人が文書の差出人ということです。

 天平勝宝二年は孝謙天皇が即位した翌年、奈良時代の真ん中を少し過ぎた頃ですが、ちゃんと法律通りになっています。雑令に基づく借銭というのは、先ず借りる人がいて保証人を立て、質を立て、八か月で半倍、十六か月で一倍ですから、八か月では半倍ですし、利率もその通り、保証人も立てています。こういう文書がいっぱい作られたのでしょうが、実際に多く残っている借金証文は、もう少し時代が下ったものが多く、百通ばかり残っています。でも、そちらは全然利息が違っています。

もっと過酷なのです。それでは次の(2)の方に移っていきます。 

(2)月借銭

 そもそも雑令では二か月に一回の利息でしたが、この月借銭解は一か月毎の利息の文書になります。

これがどこに残っていたかというと正倉院文書の中に残っています。奈良時代の文書で原文書が残っているのは大半が正倉院に伝わったものです。写経所のものが現存とレジメに書いておりますが、これは、写経所という役所が、自分の所で働いている人びとに金貸しをやっていたという文書で、高利で金を貸していたことがわかります。

 裏事情をいえば、役所自身が財政難の訳で、自分たちで何とか財源を得なければならない。そこで、自分の所の勤め人に、高利で貸し付けて利息を取り、それも運用に回す。いや笑えないですよ。

 今だって財政破綻寸前の地方自治体はいくつもありますから、もしかしたら・・・・・?その写経所のものが正倉院文書の中に残っていて現在に至っています。

 借りているのはそこでお経を写している人達、紙に書く人達だけでなく、そこで紙を打ったり繋いだり、或いは表紙を付けたり、色々な作業の行程がありますが、そこに従事している手に職を持ったお勤め人、彼らの借金証文が、たまたま百枚残っているということです。まずどんなものか見てみましょう。二枚目の史料3をご覧下さい。

史料3 宝亀三年(七七二)二月十四日當麻鷹養月

借銭解  謹んで解し 申し請う月借銭の事、 合わせて参伯文利月別に卅九文質物布二端

右、件の銭、二箇月の内を限り、本利共に備え、将に進上せんとす。。若し期限を過ぎなば、料給の時に質物を成売し、数の如く進納せん。仍ち事状を録し、謹んで解す。

 宝亀三年二月十四日給當麻鷹養   償若倭部益国    敢男足

 「員に依り行う   司   上馬養

      三月廿四日納卅九文利

      四月廿四日納利卅九文

      六月十三日納三百六十五文三百文本 六十五文五十日利」

 三百文に対し一か月三十九文の利息ならば、一か月十三%の高利でびっくりしますが、そういうものなんです。

 料給の時というのは給料を支給される時です。昔は給料をお金で貰いません。

 写経所では布で支給されることが多いので、それがそのまま質になるのです。それを売り払って、耳をそろえて返します。結構大変な内容ですが、謹んで解すですから上申文書として、これを自分の勤め先に自分で書いて出しているのです。

ちょっと借りる側の気分を想像してみてください。しかもそれが、毎月毎月の家計が自転車操業で、次の給料を貰うときには差し引かれて支給されるから、また足りないわけです。

 「」で囲った異筆部分を書いたのは上馬養という人で、正倉院文書の研究では有名な人です。彼は写経所の事務責任者です。

 三月二十四日に三十九文、四月二十四日に三十九文の利息を納め、六月十三日に三百六十五文、すなわち元本の三百文と五十日分の利息の六十五文を納めています。 二箇月の内に返しきれず、五十日オーバーした分の利息も揃えて返したことがメモされています。だから、この時の借金は無事返されたのでご安心ください。このようなものが、百通残っているのです。

 何故このようにしんどいかということを、レジメの(2)をご覧頂きながら説明します。

 古代の役人は皆位階を与えられます。一位から八位までと、その下の初位。それより下は無位。彼らは自分の官職に対して給料を貰うのではなく、位階に対して貰うことになっていました。六位の人だったら六位に見合った官職につき、六位の給料を支給される。そういう仕組みなのです。そうすると、一番下っ端の無位の人は、固定給が無いのです。 二枚目のレジメに「役人の年収」という表を載せておきました。「週刊朝日百科 日本の歴史」

(1987年)に載っていますが、非常に面白いものです。お金の価値が、今と比べてどうかと言う事がありますが、1987年バブルの頃ですから、今とあまり変わっていないのではないかと思います。これを見て頂くと、役人の給料はお金で支払われるものではないので、米とか、布とか、或いは扶持を支給されて、その田圃からの収入とか、いろんな形で与えられます。それをすべてトータルして一九八七年の円で換算した面白い表です。

 一位の方を見てください。年収三億七四五五万円。三位の大友家持は、七千四百九十万円貰える立場だった。山上憶良はご存知ですよね。貧窮問答歌。貧乏を歌っていますが、彼は決して貧乏だったわけではありません。最終的には貴族とされる従五位に上った役人です。役人だけど、貧乏人の立場に立って歌を書いてみましたというのが、貧窮問答歌です。従五位の所を見てください。山上憶良も最終的には、年収千五百四十万円を貰う立場です。決して貧乏ではありません。

 その下を見ると、初位の人はうんと下がって二百三十万円で、無位は固定給無し。働いたら出来高払いとなります。それにしても凄い表ですね。今でも大企業の人が、何億貰って、それが妥当か妥当でないかの議論がテレビで出てきましたが、昔も今もあるのですね。それでも公務員で、三億七千万はないかな?

 写経所の経師の場合、何枚写経写したかを計算して給料が算定されます。例えば、お経を何百巻写しなさいという仕事が出来た時、皆が分担させられて写経をします。その一つの事業が終わった時に、誰がどれだけ書いたかを集計して、給料が割り当てられる。あなたは布二端、あなたは少ないから一端みたいに割り当てられる。そういう状況の中でさっきのような借金証文が作られるのです。 ではもう一度レジメの一頁に戻って下さい。

 史料3では、借金をするのは當麻鷹養、償、つまり保証人は若倭部益国、敢男足でした。

この人達は、写経所の同僚です。史料2では家族で借りて、親族が保証人でしたが、写経所の月借銭では、同僚同士で保証人のやりっこをして、借金をしています。當麻鷹養が保証人になることもあるわけです。

 彼らの勤務ぶりは大変でして、自分の家から通うというのは余りなくて、写経所に泊まり込んで、昼も夜もずっと写経をしています。かなり大変で過酷な仕事だったようです。下痢とか流行るとバタバタ伝染していくとか、衛生状態の問題も想定されます。出身地、家、家族等から切り離された状況、合宿のような状況をイメージして頂くとよいと思います。だからこんなふうに保証人を立てるのも、仲間内でというようになってきます。勿論彼らにも家族はいるわけで、おそらく平城京のどこかに家もあり家族もいるでしょうが、父は単身赴任状態という感じです。

 宝亀三年(七七二)以前の月利は十三%。四年以降は十五%。もっと上がります。借りたくないけれど借りなければならない、返済は布施(写経所の給料。仏様関係の仕事ですから布施と呼びます。)の支給直後が大半。

 保証人は、必ずしも立てられないのですが、立てる場合は同僚が多い。質物、担保は布が多い。これは給料の前借の意味があるから。他には、宅地、田地を質に入れている場合もあります。このような特徴があり、全然法律通りではありません。

 こういう生活状況が出てきてしまって、庶民は大変だなあ~と感じて頂けましたか?何故皆こんなしんどい暮らしをしているのでしょうか。残念なことに残っている史料が乏しくて、奈良時代前半の事はよく判らないのですが、奈良時代後半になって、こんなヒーヒーハーハーの生活が見えるようになります。

そこのところをもう少し大きな枠組みで考えてみたいと思います。(3)に進みます。

(3)月借銭運用の背景

 何故こんな過酷な貸付になったのか。奈良時代の経済とはどういうものだったのか、それを見ていきます。

 皆さん租・調・庸はご存知ですね。租は、田んぼにかかる地税です。律令国家では戸籍を作って、それぞれの人に口分田を班給して耕させて、出来高から稲を租として納入させる。これは定額で、凶作でなければ全体の三%相当の税率でした。これは都に上がってくるお米ではありません。

 相模の国では相模に、武蔵の国では武蔵で留め置かれるもので、平城京には関係ないものです。中央の財政に関係してくるのは調と庸です。調の方は男性にかかる人頭税で、諸国の産物を都に納入させます。

 これは官人給与や、一般の政府の支出のための財源に充てられます。庸の方も男性にかかる人頭税です。日本全国の男の人は、都に来て十日間肉体労働をしなければならないということになっていて、これを歳役といいます。しかし、実際には遠方の諸国の人は十日間働くために、都まで来るのは馬鹿馬鹿しい。無駄が多いので、働きに来させず、その代りに品物で納めさせたものが庸です。労働力が必要ならば、都の近くに住んでいる男の人を人夫として雇い、給料を出しますが、。

 庸はその財源になります。古代の税制は男の人に厳しいですね。女は楽。実際笑えない状況もあったようで、奈良時代後半に偽籍、偽りの戸籍が流行って、子供が生まれたら男なのに女と偽って登録。女性の場合、口分田の班給が、男の三分の二、少し少ないのですが、調とか庸がありません。ですから戸籍には、男が二~三人、女がダーッとたくさんいる。そんな、どう見ても怪しいというのが沢山あります。

 ところで、皆さんお気づきでしょうか、ここには銭というものが、全然出てきません。銭というものを介在させないで、回しているような制度を作ったのですが、じきに回らなくなってきます。

 藤原京に遷都してまだ十数年しかたっていないところで突然平城京遷都になります。しかも藤原京は、天武天皇の時に着手して、それなりの年数をかけて道路を作り、施設を作り、ようやく持統の時に遷都しました。

 これに対して、平城遷都の場合は、元明天皇が遷都の詔を出して、二年後にはもう遷都しているのです。天皇が引っ越しをしてくるだけなら、たいしたことはないように思われるかも知れませんが、京が来るのです北は現在の平城宮跡から、南は大和郡山にかかる所まで、測量して道路を造り、建物をたくさん建てるのです。

 ブルドーザーも電気もないです。使えるのは人力と畜力だけです。どれだけ労力が必要か、どれだけ財源が要ることか…。そうなると全然財源が足りません。人を雇えません。どうしたら良いか、何処で財源を賄ったらよいか。

 それでお金を作るのです。和同開珎です。銅の鉱石を銭の形に鋳造してそこに価値を与える。それを財源にするのです。分かり易く、現在にたとえましょう。私たちは一万円札を持っていると一万円相当の品物と交換できます。

 一万円札そのものは紙切れ一枚ですが、それは、政府が一万円相当の値打ちを保証しているから価値があると認識されます。和同開珎も同じです。銅の塊を銭の形に鋳造して、使うと、銅の塊より和同開珎の方が値打ちは高い。その差額が政府の収入になります。和同開珎をどんどん作って、人夫に給料として与え、それで財政難を乗り越えていきました。

 それだけで済めばよかったのですが、奈良時代には、平城遷都だけでなく、色々なお寺、大安寺・薬師寺など遷都当初のものに加えて、東大寺・西大寺など、数々の大寺院が公費によって建立されました。それだけでなく、聖武天皇は、恭仁京・難波京・信楽宮と、五年間に遷都を繰り返しました。東大寺の大仏も。初め紫香楽で作り始めたのを途中から奈良で作ることにしました。

 そんな無駄を繰り返すので、どんどん財源が必要になってきますし、そのたびにジャンジャンお金を発行します。そうすると勿論インフレになってきます。物の値段が上がってきます。

 その結果、定額の給料を貰っている人は、布とかお米とかで貰っていても、それ以外の商品の値段が上がっていき追いつかない。そんなふうになって、結果的に彼等は借金をしなければ家計が回っていかないことになります。しかも政府の方は、恒常的に財政難ですから、写経に対する布施などは奈良時代後半になると、支給額が減ってきたと指摘されています。

 給料が減るのと同時にインフレです。そこでお役所に前借をして、生活するようになったのではないかと考えると、辻褄が合うのです。お役所にしてみれは、利息を取り立てて収入源にできる、とってもおいしいやり方です。それともう一つ、お金を借りている人達というのは、あの正倉院の美しい字を書く人達ですが、借金で縛り付けておけば、ずっと雇い続けられる訳です。

 搾取される側としては大変ですが、彼らとしても、務めている限りお金を借りられる。持ちつ持たれつで、借りる先、貸した事で縛り付ける関係が出来たのかな、と思われます。

(4)借金証文から見える人々の暮らし

 二つほど事例を挙げてみました。まず史料4をご覧下さい。レジメで踏み倒す人、取り立てる人と書いた部分に相当する史料です。これは、借金が原因で夜逃げをして生活破綻してしまった、とっても悲惨な人達のお話として紹介されることが多い史料です。

史料4  天平宝字六年三月二十七日鳥取国万呂状

 秦乙公百 秦立人百文 調乙万呂百文 大友諸人卌文 倉古万呂八十文 神人広万呂百文 日下部広人六十 調玉足百文 右、件の人等、去ぬる五年十二月廿七日を以って月借銭を請け、未だ報いずして逃亡す。是に冒名を為し、石山寺に仕うると聞き食う。好の故に吉成尊に解す。 其人の面を見て、此の書に注す所の員の如く、折ぎ請け給わんと欲す。恐る恐る以て解す。

 六年三月廿七日鳥取国万呂状

 冒名は偽名です。石山寺でも写経事業が行われていましたので、彼らもそれを当てにして石山へ行ったのかもしれません。吉成尊に解すとありますので、宛先は吉成さんです。

 最後の恐る恐る以て解すというのは書状末尾の極まり文句です。この手紙を出したのは、鳥取国万呂です。八人の人が、借金を踏み倒して逃げ、どうも偽名を使って、そちらで働いているようです。それらの債務者から、お金を取り立ててくださいと言っています。従来よく言われるのは、借金が原因で生活破綻した悲惨な事例ということなのですが、違う見方も出来ないでしょうか。

 先ず借りたのは年末ですが、姿をくらましてしまって、どうもあそこで働いているらしいという噂を聞きつけて、鳥取国万呂が手紙を出すのが、わずか三か月後です。返せなくなって、利息が絡んで、もうどうにも仕方なくなって夜逃げしたようなタイムスパンには見えません。しかも、借りている額が少ないですよね。四十文とか六十文とか。ここまでに見てきた史料に出てくる額に比べると少ない。人によっては少額でも負担になる人がいるかもしれませんが、相対的にみると少ない気がします。

 これで生活破綻して、家庭が崩壊したのだろうかと思うのです。しかも、鳥取国万呂は、最後に其の人と対面し、ここに書いてある額を、取りあえず取り立ててほしいと言っています。折ぎ請けは一部だけでも受け取ると言うことですから、全額取り立てというきつい調子ではありません。しかも、数はきれいです。

 百とか四十とか。利息が付くと先ほど見て頂いたように、半端の数字になります。どうもそうではない。取り立てる側は役所の金を運用しているから、何とか回収しなければならない。これだけでも良いから取り立ててくださいと、石山寺の吉成さんに泣きついている手紙のように見えます。そうすると踏み倒した側は、案外計画的に、初めから石山寺へ転職しようか、行きがけの駄賃にちょっと借りて、踏み倒して行ってやろうかと企んだというふうにも見えます。

 家族にしても、もともと平城京に勤めている時も、役所に住み着いて、家に帰ってこないお父さん、旦那さんですから、勤め先がちょっと遠い石山寺に変わっても、あまり状況は変わらない。仕送りさえしてくれれば良いわけです。案外したたかでちゃっかりした人達かな?そう思ってこの史料を見ると、クスッと笑ってしまいます。

史料5に移ります。

史料5 宝亀三年十一月二十七日丈部浜足月借銭解

丈部浜足解し 申し請う月借銭の事

 合わせて壱貫文利は百卅質物(家脱カ)一区地十六分の半板屋三間、在右京三条三坊 口分田三町八段在葛下郡

 右、一箇月を限り、本利並びに将に進上せんとす 若し期日過ぎなば、妻子等質物を成売し、数の如く将に進納せんとす。仍ち状を録し解す。

   宝亀三年十一月廿七日 専ら受く浜足     男乙人麻呂 益人 奥人

           償人「他田嶋万呂」    「石川宮衣」  「金月足」

   「十二月廿五日を以て千一百廿五文を納む一千文本      一百廿五文廿七日の利」

 壱貫文は一千文のこと、利は十三%で月に百三十文、質は家、地十六分之半、乃ち一坪の十二分一、板葺の家三棟があります。口分田三町八段は葛下郡にあります。一か月を限って元本と利息を一緒に収めますが、若し期日が過ぎたならば、妻子等質物を成売し…。今ふっと笑った方がいらっしゃいましたが、「妻子を売り払って」と想像されたのでしょうか。

実際にそのように説明されることが多い史料です。私は違うと思っているのですが…。

 それは後程にして、先ず質物から見ていきましょう。地十六分の半は三十二分の一のこと。平城京の中は条坊制で区画されています。東西に条、南北に坊、それに挟まれた区画を更に四×四に区切ります。十六分の一が一坪で、一辺が百メートルちょっと、その三十二分の一が彼の持っていた宅地の広さ、これを現在の坪数にすると、百十五坪くらい。広いように感じられますが、さして広くはないということを、後からご理解いただけると思います。

 口分田は、葛下郡に三町八段を班給されている。葛下郡という離れたところにある田んぼですから、それを耕すことはなく、地の人に貸して、地子(地代の事)を取り収入源にしていたのでしょう。

 国から与えられた口分田を、借金の担保にしていいのかよく判りませんが、これを担保にしています。口分田は男性六歳以上に一人あたり二段、女性はその三分の二、男女同じくらいの数として、三町八段は、二十二~二十三人分の口分田になります。これに5歳以下の乳幼児も加わるでしょう。二十数人の大家族が、生計を共にしていた可能性があります。それがこの現在の百十五坪相当の宅地に住んでいたのではないかと推測されます。

 今のように核家族で、四~五人で百十五坪に住んでいる訳ではありません。板屋三間とありますが、当時瓦葺の建物は、寺院・宮殿くらいのもので、天皇の住まいの内裏も檜皮葺です。この宅地には板葺の家が三棟建っていて、そこに何人かで住んでいる。そういったことを想像できます。

 そこで、先ほどの妻子等質物を成売し、ですが、文法的には妻子が主語と読めます。実際に質物には家や田が上がっていて、妻子は質ではありません。とすると、浜足さんはずっと役所に泊まり込みで働いていて、家に帰れないし、期日が過ぎても返せなかったら、妻子が質物を売り払ってお返ししますと約束しているのではないでしょうか。この史料を見て、私は家の留守を守るしっかり者の奥さんというイメージを持ちました。

 もうちょっと想像を膨らませましょう。借りている人は浜足で、息子も一緒に借り手になっています。月借銭は役所から借りるものですから、この家庭では三人の息子も一緒に写経所で働いていた可能性があります。

口分田から切り離された都市の庶民は、農業以外で収入の道を得なければなりません。不安定な収入だけれど、親子で下っ端の公務員として役所に勤めに出ていたのでしょう。他にも公共事業の現場で肉体労働に従事するものもいたかもしれません。

 それぞれが様々な形で働いて何とかやりくりしていたのでしょう。そして、妻は家を守っていた。そういった庶民のたくましさを、私はこの文書から感じ取りました。ちなみに、十二月廿五日に千百二十五文、元本千文と二十七日分の利息百二十五文を無事に納めております。めでたしめでたしです。