層富No32号   2015年7月発行

表紙について

 この文書は、織田信長(弾正忠)が永禄十一(1568)年、足利義昭(のちに十五代将軍)を奉じて美濃から入京を果たした時期に、京の町方の要請を受け、発給した法度書きで、軍勢の乱暴狼藉などを禁じたもの。印判の文字は、おなじみの織田信長の「天下布武」の四文字。同文のものは他の町にも出されています。

《読み下し文》 禁 制

 四条かん(函)こく(谷)惣けんぎゃう町

一、当手軍勢、勢い濫妨(らんぼう)狼藉の事。

一、陣(じん)執(と)り放火の事。

一、非分の族(やから)申し懸(か)くるの事。

右 条々違犯の輩(ともがら)においては、速やかに厳科に処すべきものなり。よって執達くだんの如し。

 永禄十一年九月 日 弾正忠(印)

       写真と文 古文書を読む会 リーダー石川恒久

《巻頭言》

             平城ニュータウン文化協会会長  日比野 豊 

 松村前会長が辞任され、絵画の会代表の日比野が第四代文化協会会長を命ぜられました。只絵画好きな一会員でしたが、このような大役を仰せつかり、どこまで皆様にお役に立てるか判りませんがよろしく願います。

 人生はこの世に生を受け学校を卒業するまでの育成期、社会に出て結婚するまでの成長期、結婚して家族や育児・仕事に打ち込む熟成期、そして仕事や子育てを終了して、やっと自分の時間を持ち人生最後の仕上げの完成期に分けられると言います。この完成期には人それぞれ異なりますが、次の四つの喜びを求めながら生活されているように思われます。

① 自分のしたかったことを、目標をもってやり遂げる喜び。

② 今までの人生で培ってきたことを次の人に残してあげ又若い人を育てる喜び。

③ 家族や近隣の人々と絆を作るよろこび。

④ 地域社会に出てボランティア活動を通じて地域に貢献する喜び。

 会員の皆様はこの一つあるいは複数の喜びを求めて日夜ご活躍されていることと思います。私に当てはめて申しますと、仕事からやっと卒業して自分の好きな絵画が出来ると楽しんでいた時期でしたが、人生何が起こるかわかりません。これからは文化協会のボランティア活動を通じて地域に貢献できればと考えております。

 会員皆様方のご協力とご支援をよろしく願います。

寄稿文「源氏物語」にみえる乗り物について

                               堀口 千秋

 平安時代の乗り物には、どんなものがあったのだろうか?  調べてみました。

 輿車図考という江戸時代後期の故実書

《古代の輿(こし)と車の起源や種類などについて図や古記録を引いて考証した書。松平定信編・渡辺広輝画。16巻。文化元年(1804年)成立。彩色図付き。》を参考にしました。 

 輦(れん)と輿(こし)天皇の外出(行幸)には牛車(ぎっしゃ)を使用せず、もっぱら輦(れん)を用いた。輦は力者が肩に舁(か)くもので、屋形の屋根も切妻ではなく、四つの棟を中央の頂に集めた方形造(ほうぎょうづくり)である。頂に金銅製の鳳凰(ほうおう)の作り物を乗せたものを「鳳輦(ほうれん)」、宝珠を乗せたものを「葱花輦(そうかれん)」という。また力者を、駕輿丁(かよちょう)とよぶ。神社の祭礼に用いられる神輿は、この天皇の輦を模したものである。

 これに対して、一般の者が乗る輿は、力者が肩ではなく腰のところで舁き、屋形の屋根も切妻という違いがある。

◆ 鳳輦(ほうれん) 屋形の上に金銅の鳳凰(ほうおう)を飾った輿(こし) 。天皇の晴れの儀式の行幸用のもの。鳳輿(ほうよ)。鸞輿(らんよ)。転じて、天皇の 乗り物の称。

◆ 葱花輦(そうかれん)屋根の上に金色の葱(ねぎ)の花の形の飾りを つけた輿(こし)。天皇の略儀の行幸に用い、皇后・東宮の行啓にも用いた。なぎのはなのみこし。葱輦。

◆ 輦車(れんしゃ)平安時代以来,特に大内裏 の中を貴人を乗せて人力で引く車。宮城門から宮門までの間を乗る。大内裏外の交通 は,一般に牛車,乗馬によった。輦車の乗用を許す宣旨を「輦車の宣旨」という。

◆ 四方輿(しほうこし)上皇、摂関、大臣をはじめ公卿などが遠出の際に用いる高級な輿で屋形の四方の柱間を吹き放ちとして御簾を垂らし眺望を良くしたもの

◆ 板輿(いたこし)

屋形を板で張り前または前後に簾をかけた軽装の輿。上皇、摂関、僧侶が遠出に用いた。 

牛車(ぎっしゃ・ぎゅうしゃ)

◆唐車(からくるま)大型で、最も華美な様式の牛車(ぎっしゃ)。唐破風( からはふ)造りの屋根をつけて檳榔(びろう)の葉で葺(ふ)き、同じ葉を総(ふさ)にして庇( ひさし)・腰などに垂らしたもの。檳榔を染め糸に代えることもある。太上天皇・皇后・東宮・准后・親王や摂関などが晴れのときに用いた。唐庇(からびさし)の車。唐の車。

◆ 檳榔毛の車.(びろうげのくるま)檳榔の葉を細かに裂き,白くさらしたもので車の箱をおおった牛車(ぎつしや)。上皇・親王・大臣以下,四位以上の公卿・女房・高僧が乗った。

◆糸毛の車(いとげのくるま)牛車(ぎっしゃ)の屋形の表を色糸で 飾ったもの。主に女性用。地位により青糸毛・紫糸毛・赤糸毛などがある。毛車(けぐるま)。

皇后・中宮・春宮・斎院・准后は青糸毛、更衣・典侍・尚侍は紫糸毛、賀茂祭の女使は赤糸毛が例。

◆ 網代車(あじろぐるま)車の屋形に竹または檜(ひのき)の網代を張ったもの。四位・五位・少将・侍従は常用とし、大臣・納言・大将は略儀や遠出用とする。

◆ 半蔀車(はじとみくるま)

網代車(あじろぐるま)の一。物見窓を半蔀としてあるもの。摂政・関白・大臣・大将の乗用とし、時には上皇や高僧・上﨟(じょうろう)女房も 使用した。

◆ 雨眉車(あままゆのくるま)

屋形の軒が唐破風(からはふ)に 似たつくりの牛車(ぎっしゃ)。上皇・親王・摂政・関白などが、直衣(のうし)を着たときに 乗る。雨庇(あまびさし)の車。

◆ 八葉車(はちようのくるま)

網代車(あじろぐるま)の一。車の箱の表面に八葉の紋をつけた牛車(ぎっしゃ)。大臣・公卿から地下人(じげにん)まで広く用いられた。紋 の大小によって、大八葉車・小八葉車の別がある。

◆ 出衣(いだしぎぬ)

牛車の簾の下から、女房装束の裾先を出して見せる装飾。乗っている本人の衣の裾を出すのではなく、最初から飾り用の装束を準備しておく。女車のサイン。清少納言の「枕草子」第29段に、牛車に付いて語っているのは面白い。

「枇榔毛はのどかにやりたる、いそぎたるはわろく見ゆ。網代ははしらせたる。人の門の前などよりわたりたるを、ふと見やる程もなく過ぎて、供の人ばかり走るを、誰ならんと思ふこそおかしけれ。ゆるゆると久しくゆくは、いとわろし。」

(枇榔毛車はゆっくりと進ませるのが良い。急いでいるのは悪く見える。網代車は、走らせた方が良い。家の門の前を通るのに、ぱっと目をやる間もなく通り過ぎてしまって、後ろから付いていくお供の人達が走っているのだけが見えて、さて誰の車だったのかしらと想像するのが趣がある。逆に、網代車をゆっくりと時間をかけて進ませるのは、つまらない事だ。)

牛車について

日本の平安時代では貴族の一般的な乗り物であった。移動のための機能性よりも、使用者の権威を示すことが求められ、重厚な造りや華やかな装飾性が優先された。そのため、金銀の装飾を施すなど華麗という以上に奢侈に流れる弊害のために八九四年(寛平6年)、一時乗車が禁止されたこともある。

使用方法

「延喜内匠式」には屋形の長さ8尺、高さ3尺4寸、幅3尺2寸という。通常4人乗りで、あるいは2人乗り、あるいは6人乗る。乗降は、後方から乗り、降りるときはまず牛をはずし軛(くびき)のための榻(しじ)を人のための踏台として前から降りる。なお、源義仲が上洛して牛車に乗った際に、これを知らずに後から降りて笑いものになったことがある。男性が乗るときは簾を上げ、女性のときは下げる。牛車の牛を引く牛飼童(うしかいわらわ)や牛車の両側につく車副(くるまぞい)と呼ばれる者達がつき従って使用された。

座席の順位

牛車には最大四人が乗れる。身分の上下によってその席順が決まっている。前方右が第一の上臈(じょうろう)、その左が次席、さらに三番目が後方の左、最後が後方の右側の席ということになる。男女が乗るときは、男性が右側に、女性が左側に乗る。また、一人で乗るときは、左側に座って右側を空けた。

源氏物語の中の乗り物

◆ 妊娠中の葵上が、気分転換に賀茂祭を見に出かけるシーン。

身分の高い女車、=葵上(一行に光源氏も参加している)

少々乗り古した網代=六条御息所(忍んできたので本来の糸毛車でなかった)

光源氏が須磨へ向かう前、「網代車のうちやつれたるにて、女車のやうにて隠ろへ入り給も、……」人目を避けるための網代車。◆朧月夜と密会「網代車のむかしおぼえてやつれたるにて出で給」昔の忍び歩きが思い出されるような粗末な網代車薫、宇治の八の宮にお会いになるため出かける。「かろらかに網代車にて……」人目につかぬように身軽な網代車に◆ 女二宮の降嫁、薫との婚姻「廂の御車にて、廂なき糸毛三つ、黄金造り六つ、ただの枇榔毛廿、網代二つ……」女二宮は、廂の付いた糸毛車にお乗りになり、屋敷までお見送りのお供をなさった女房達が、廂のない糸毛車3両、黄金造の枇榔毛車が6両、普通の枇榔毛車が20両、網代車が2両、に分乗なさった。

◆ 光源氏、六条御息所の所へ忍んで通っていた頃、乳母の見舞いに寄って、夕顔に出会う。「御車もいたくやつしたまへり。前駆も追はせたまはず誰とか知らむとうちとけたまひて……」乗ってきた車もとても粗末なものであるし、先払いもさせずに来たので自分が誰だとはわかるまいと安心して夕顔を車に乗せる。

◆ 夕顔を車に乗せる。「急ぎ出でたまひて、軽らかにうち乗せ給へれば、右近ぞ乗りぬる。」急いで出発なさり、ひょいと夕顔を車にお乗せになると、侍女の右近も一緒に乗ってきた。

◆ 夕顔の死後、光源氏馬に乗る。「はや、御馬にて二条の院へおはしまさむ。人騒がしくなりはべらぬほどに、とて、右近を添えて乗すれば、徒歩より、君に馬はたてまつりて……」早く馬に乗って二条院へお戻りください。人の往来が多くならぬうちに、惟光は言い、夕顔の遺体には右近を一緒に車に乗せた。惟光は歩いて光源氏の馬の用意をする。

 以上拾い出してみたが、源氏物語には、車種などは明記されていない。忍び歩きの小道具として網代車が効果的に配置されていて、女車であることが明記されている。