層富No33号  2016年7月発行 

表紙について

[瑠璃色の精霊殖(ふ)ゆる芝草の上に荒馬となり少年疾駆す]

   芝草の上を駆けめぐる少年たち。かつて自らもサッカーボールを追いかけ、ゴールポストめがけて蹴りながら走りつづけていた。

ハットトリックしたこともあった。サウスポーゆえ左足からのキックが得意だった。いま少年たちは、精霊をふりまきながら、荒馬のごとく疾駆する。 櫟原 聰先生はサッカー少年でした。

今年のいわて国体に合わせた「日本現代詩歌文学館」常設展に、この短歌が採用されました。

先生は大和郡山出身で、東大寺学園中学校・高等学校前教頭。奈良市在住。「ヤママユ」「木霊」「京大短歌」所属。

「ヤママユ」編集委員。前登志夫に師事。日本ペンクラブ現代歌人集会理事。萬葉学会・上代文学会萬葉語学文学研究会・古代談話会・歌謡研究会所属で幅広く活躍中です。

                              写真と文 短歌を楽しむ会 講師  櫟原 聰

運命の糸「百済観音微笑みの秘密」

                                     野島正興氏の講演を聞いて 日比野 豊

 今回ほど不思議な運命の糸で結ばれているように感じたことはありませんでした。

元NHKアナウンサーの野島さんは、当文化協会の初代会長網干(あぼし)善教(よしのり)先生に何度も会われ、インタビューもされたことがある旧知の仲でした。このことを全く知らない私は、知人を介して野島さんをご紹介して頂き、「百済観音微笑みの秘密」という面白そうなタイトルで、秘密めいたお話だからぜひ今年の総会後の講演を、とお願いしました。その結果快諾いただき、立って聴講して頂いた方にはご迷惑をおかけしましたが、大盛況と言える講演会を開催でき感謝している次第です。

 今回の講演ではじめに野島さんより、網干先生の談話として、「考古学に発見はありません。私たちの仕事は遺跡について学術的に確認を行うことなのです」という高見が紹介され、網干先生のお人柄と考古学への情熱が彷彿として思い出されました。網干先生は昭和五八年に設立された当文化協会の初代会長で平成一八年にお亡くなりになるまで、長期にわたり文化協会を育てて頂きました。また日本の考古学者の第一人者で、関西大学名誉教授であり、考古学のみならず古代史、仏教史にも精通された文学博士でした。更に奈良県立橿原考古学研究所所員だった昭和四七年、高松塚古墳で彩色壁画を発掘、日本中が考古学ブームに沸き立ちました。その後、石室解体保存に関して文化庁による管理体制の不備、官僚的な事後対策を糾弾し、考古学者の立場から「遺構を人為的に動かすことは、遺跡の破壊行為である」と一貫して反対の姿勢を貫かれた先生でした。

 ところで、今回の野島さんの講演は、「邂逅(かいこう)」即ち偶然の出会いの連続により成し得たものであるとのことです。

本文は野島さんのお話を聴講し、また野島さんの著書『百済観音半身像を見た』から運命的な出会いの部分をそのまま引用させていただき、百済観音に関係する歴史をまとめさせて頂きました。今後の仏像や美術品等の鑑賞に興味がある方に少しでも役立てれば幸いです。野島さんはNHKアナウンサーとして、徳島→奈良→名古屋→京都と転勤する間に、やがて、その微笑みに関心を深めることになったとのこと。特に名古屋放送局での勤務の時、百済観音半身像(上半身だけの百済観音)との出会いは奇跡的であり、これが微笑みの秘密に迫る取材の原動力となったということでした。

 今回の講演会はその取材記『百済観音半身像を見た』を主体に、NHK時代に放送された録画の視聴、聴講者の一人で会員の荒川成子様の朗読なども交え、講演会を盛り上げました。奈良法隆寺の国宝、百済観音の微笑みについては、様々な作家、芸術家によっていろいろと語られ称賛されています。哲学者和辻哲郎は『古寺巡礼』の中では、「あのかすかに微笑を帯びたなつかしく優しい・・・・顔の表情」と述べられ、これが読者の反響を呼び、それ以後には微笑みを持った百済観音像として多く語られるようになったとも言われています。

(一)百済観音は謎の仏像

 百済観音像は平面五角形の反花座に直立し通常の仏像に比べて著しく痩身で二百十センチほどの頭部が小さく八頭身像です。

これと対比される美しい像として二百三センチのミロのヴィーナス像があります。観音様は中性ですが、ヴィーナスは下半身を布でまとい女性の美しさを強調しています。東西の美の象徴像として広く知られています。百済観音は七世紀半ば飛鳥時代の造像とされていますが、法隆寺資材帳など古い文献にその記録がなく、どこで誰が制作し、どのようにして今ある法隆寺に伝わったのか分からないとのことです。また観音様の微笑みはモナリザの微笑みと同様謎に包まれています。

 江戸、元禄時代の法隆寺の書物には、「百済ヨリ渡来但シ天竺ノ像也」とする記述が見られますが、奈良時代の記録にはその由来は記載されていなくて謎の仏像とされています。江戸時代には虚空蔵菩薩、明治半ばには朝鮮風観音、韓式観音とも呼ばれました。また大正六年『法隆寺大鏡』に百済観音の呼び名が初登場しています。

 法隆寺の高田良信管長(現・長老)は『法隆寺の謎と秘話』で、百済観音の伝来について、橘寺、法起寺、定林寺、妙安寺からの移納説があると紹介され、中宮寺が大きく荒廃した時代に法隆寺に移されたのではないかという説を提起されています。

(二)国宝の歴史は国宝修理の歴史

 国内にある国宝は明治時代になってから、多くが修理・保存され現在に至っています。

明治三〇年に古社寺保存法が成立し明治三十一年春、東京美術学校を辞職した岡倉天心は「日本美術院」を設立して、古美術修理技術の研究開発に取組むことになったようです。

明治の初期には古美術品の多くは千数百年の雨風や紫外線・温湿度差などによりボロボロになっていました。そこで岡倉天心は弟子の新納(にいろ)忠之介(ちゅうのすけ)に命じ、廃仏毀釈で荒廃していた痛々しい仏像群を保存修理することになったようです。野島さんは香川県の中学生のころ、奈良・京都への修学旅行では、出発前に先生から「法隆寺の百済観音だけはよく見ておきなさい」と言われたそうです。百済観音を見上げる中学生の私。そしてこの風景は、ずっと記憶のどこかに残っていたそうです。そして、NHK徳島から奈良に転勤したある日、長崎からの一本の電話が百済観音取材のきっかけとなりました。以下、野島正興著『百済観音半身像を見た』より引用します。 

 若草山、東大寺、春日大社。NHK奈良放送局の二階の窓からは、広々とした奈良公園の中ほどから北の方角が見渡せる。緑の海に一人抜け出して見えているのは大仏殿である。その大屋根に乗る一対の金の鴟尾は、いつものように夕刻の光をやわらかに照り返していた。秋の日は釣瓶落とし。日が暮れるのに合わせて大屋根の黒はたちまちその輪郭を失いつつあった。だが、日没のあとも鴟尾の金だけは残照の仄かな明かりをとらえ、宙(そら)に浮かんで見えている。千三百年前のいにしえの人々はこの風景を何と見たのだろう。

 夢想の中に電話の鳴る音がしていた。平成三年十月。この長崎からの電話がなければ、私は、あの上半身だけの百済観音、百済観音半身像を見ることはなかったのである。

「長崎の今泉です。もう忘れたっとね。」

「はあ、え~と、今泉さんですか。」

長崎に勤務したのは昭和五十七年までの四年間だった。長崎を出てからもう十年になる。今泉さんがどういう方だったのかすぐには思い出せなかった。

「画家の今泉信男です。長崎では、ほら、画廊喫茶でお会いしたとですよ。」

甲高い声の長崎弁を聞くうちに、駅前の二階にあった画廊喫茶の様子が目に浮かんだ。

二人が偶然カウンターに並んだ時、マスターの紹介で今泉さんと話しがはずんだことがあった。

「はいはい。どうもすみませんでした。最近どうもボケたようでして。洋画家の今泉さん。年賀状も途切れてしまってどなたかと思いました。お元気ですか。」

「ハハハ。お久しぶりです。この前、マスターから野島さんが今、奈良におるとって聞いたとよ。奈良は何年くらいになるとね。」

「はい、長崎から松山、徳島、奈良と転勤しました。奈良では二年目です。」

「にいろちゅうのすけを知っとらすと。」

「えっ、にいろ……」

「新納忠之介は奈良美術院の初代院長だったんですよ。」

 ここで新納忠之介について調べてみますと次のような方でした。

国宝修理の第一人者新納忠之介(美術院初代院長)は岡倉天心の弟子でした。

奈良の新納旧家など関係者への取材で、野島さんは新納忠之介が戦前に制作した百済観音の上半身だけの模刻作品、「百済観音半身像」の存在について初めて知ることになりました。

 百済観音半身像とは何か。これが戦後行方不明になっていると言うので興味を持たれ調査を開始されました。しかし資料を集めているうちに野島さんは名古屋に転勤になりました。

 新納忠之介は鹿児島出身で明治元年に生まれ東京美術学校の彫刻科で学びました。

岡倉天心、高村光雲に師事して、その後岡倉の命により新納らの部門は日本美術院第二部となり、岡倉没後の日本美術院再興・再編に伴い、日本美術院第二部は独立して国宝などの美術品修理を専門とする美術院となり、新納が責任者となりました。

 私たちが美術館や博物館で古い絵画や仏像を見てもどこをどのように修復したのか全く分かりません。絵画や仏像の修復はただ綺麗にすると言うだけでなく、如何にして制作時の状況を把握して、その意図するところや面影、経年変化を残しながら保存修理することで、制作者の魂を受け継いでいかねばならないということです。

このため新納らは修理前後の写真や書面など詳細な記録を残し、どこをどのように修理したか後世に判るようにして現在の文化財修理の基礎を築いたのでした。

 新納らのグループでは奈良に事務所を設立すると同時に奈良在住の仏師や名人と呼ばれた漆工、木工、金工や模造師たちを集め、その人たちの技術を結集しながら修復技術を高めていきました。

修復は国内の仏像のみならず、海外に持ち出された仏像なども含め、記録では二千六百三十一体の仏像等の多くの文化財を修理したようです。

 現存している仏像の多くは新納忠之介のグループの功績が多大であることが判りました。

昭和の初め、大英博物館の要請により新納は百済観音の模刻作品を制作し、これは現在、大英博物館所蔵となっています。そしてこのとき、同時に制作されたもう一つの模刻作品があり、これは東京国立博物館に所蔵されています。半身像はその二つの作品の習作となったものでした。 

(三)半身像との邂逅(かいこう)

野島さんがNHKの名古屋に転勤してしばらくして、知人から電話があったそうです。 

「野島さん、奈良で探しておられた百済観音の半身像が名古屋にあるそうです。」

「名古屋にっ。本当ですか。」

「私もそれを聞いてびっくりしたんですよ。」

「名古屋のどこにあるのですか。」

「それは分からないんです。お寺にあるのか、個人持ちなのかそれも分かりません。」

よく聞くとこの話は奈良の有名寺院からの情報に基づくものであった。場所の確定はまだできていないが名古屋市内のどこかにあるはずだという。それにしても、奈良ではすでに焼失したかも知れないと聞かされた百済観音半身像が名古屋にあるというのだ。

私は静かな興奮が波のように広がるのを感じた。これではまるで、半身像は私が名古屋に転勤してくるのを待っていたようではないか。半身像はこの名古屋のどこにどんな状態であるのだろうか。あちこちでお尋ねするうちに、願わくば半身像がお寺や美術館など公的な場所に保管されていること、又、壊れたり傷んだりしていないで欲しいと念じる気持ちが日増しに強くなった。そして、およそ一ヶ月たった頃、私は半身像が名古屋市の龍興寺にあるという情報を得た。胸はときめいたが、寺にはさらりと気持ちを押さえるようにして電話した。

「もしもし、龍興寺でしょうか。」

「はい、住職の渡辺英信です。」

「はじめまして、そちらに百済観音の上半身像があるとお聞きしましたが、どうなんでしょうか。」

「はい、上半身だけの観音さまです。二十年前から本堂にお祀りしてございます。」

「今から拝見できますでしょうか。」

「これから外出しますので、明日でよければどうぞおいで下さい。地下鉄荒畑駅の出口を上がると、もうそこに寺の屋根が見えてますよ。」

翌日、教わった道を車で行くと次第に通り慣れた道になった。人生とは不思議なものである。

龍興寺の前の通りは、私が名古屋着任当初、臨時に六ヶ月間住んだマンションからNHK方面に向かう通勤バスの通り道であった。(中略)

「御住職、急なお願いで申し訳ありません。」

「お待ちしておりました。さあどうぞお上がり下さい。私は午後からは留守にすることが多いんですが、今日は珍しくこの時間にいるんですよ。」

「ありがとうございます。庭のしだれ桜がいい感じになってますね。」

「いやあ、まだ細いでしょう、あと十年もすれば立派になるんでしょうが、さあどうぞ、観音さまは向こうの部屋です。」

私は、また今回も探し求めている半身像でなかったらどうしようかと不安になった。だが、本当に新納忠之介の百済観音半身像であったらどうしよう。

そっちの方がもっと大変だと思い気持ちを落ち着かせようとした。

「どうぞ、廊下を渡ってまっすぐお歩き下さい。その部屋です。」

住職の声を背中に聞きながら私は大きな障子をゆっくりと開けた。一瞬ドキリとする。

正面の台座に上半身だけの仏像が安置されている。障子をいっぱいに引くと、花曇りのまんべんない明るみが仏像の正面に及んだ。光背の赤がちらと見え、やわらかな微笑みが浮かび上がった。

 百済観音半身像。ついに私は百済観音半身像を見た。

平成八年四月十二日、奇しくもこの日は新納忠之介命日の前日だった。奈良の新納旧家で初めて半身像のことを聞いてから丸々三年の半身像邂逅である。

住職が前に歩み出て座し仏に一礼した。私もこれに習い手を合わせた。

「野島さん私はね、法隆寺の百済観音より、こちらの観音さまの方が優しいお顔のように見えるんですが、どう思われますか。」

「そうですね。私もそのように思います。法隆寺の百済観音より目元がくっきりしているように思います。でも今にも表面が剥がれ落ちそうに古びたところなど、全体の姿、形はそっくりですね。」

「ほんとにその通りですね。これは等身大の上半身ですから。全くそのままのようですね。」

この半身像との邂逅によって野島さんはこの半身像がどのような運命でここにあり、さらに修理前の百済観音や国宝修理に関してどのように行われているのか取材をしようと調査を開始されました。

その結果、この半身像は渡辺住職が二十年ほど前に骨董屋さんで偶然見かけ、法隆寺の百済観音にそっくりで、手も膝から下もなく、お痛わしいので、名古屋の自分の寺に安置することにしたとのことでした。

後になってこれが新納忠之介の作品だと判りました。

 百済観音は明治三八年から一年がかりで修理が行われた記録がありますが、修理前の写真は不明でした。

調査を進めるうちに東京国立博物館には、明治時代に撮影された百済観音の写真が二枚ありますが、いずれもぼやけ、白黒のコントラストが強すぎて、表情はよく分かりません。

また奈良、京都の仏像写真家にもお聞きしましたが、修理前の百済観音の写真は持たないし、見たこともないという返事でした。

(四)修理前の百済観音の写真発見

 野島さんは通勤道の龍興寺で半身像邂逅のあと、奈良県立図書館、徳島県文化の森図書館などあちらこちらを取材しているうちに奈良市写真美術館に、徳島出身の明治の写真師、工藤利三郎が撮影したガラス乾板が保管されていることが判ったそうです。

 以前に徳島の人形芝居研究家、久米惣七さんから「工藤利三郎が撮影したガラス乾板は奈良市教育委員会に預けられている」という情報を得ていたので、もし百済観音のガラス乾板が残っていたら、修復の過程が判るのではないかと思われ奈良市教育委貝会へ電話をされました。

百済観音の修理前の鮮明な写真があれば、その表情がもともとはどうであったのかが判るのではないかと思われました。

 奈良市教育委員会文化振興課の話では、「工藤利三郎の作品は、昭和四年に利三郎没後、淡路島の縁者が保管していたが、昭和四十年代になって大量のガラス乾板が奈良市教育委貝会に寄贈され、その後平成四年にオープンした奈良市写真美術館にある。」とのことでした。

ここで野島さんの発見時の印象が分かるように著書から引用させていただきます。

奈良市写真美術館にはよくよくご相談し、後日、私は写真美術館の収蔵庫でガラス乾板を拝見することになった。

 祈るような気持ちだった。そして、二千枚のガラス乾板の中に、ついに百済観音が三枚あるのを確認したのである。この内二枚は奈良と徳島の図書館で見た『日本精華』の百済観音の原板にちがいない。

あった、あったと叫ぶ力を静かに集めて私は目を懲らした。黒っぽく少し茶を帯びた焼き付けは陰影鮮やか。撮影から百年近くを経たとは思えない保存の良さ。修理前の百済観音の姿はタイムカプセルのようにガラスの表面に閉じ込められているのだ。そして探し求めた工藤利三郎のガラス乾板が何気なくここにあるのが不思議にさえ思えた。

「印画紙に焼き付けをお願いできるでしょうか。」

 係の方に懇願して、私は写真美術館をあとにした。そして、一週間後に送られてきた百済観音の二枚の写真を手にし、私はその鮮明な実在感に圧倒されたのである。

修理以前と以後で、百済観音の表情がちがうのはもはや語らずとも明らかであった。

 百済観音微笑みの秘密は、国宝仏像修理の新納忠之介と明治の写真師・工藤利三郎、この二人の人物の取材の交点にあったのである。

(五)胡粉のタイムカプセル

 野島さんは百済観音の全身像や顔の正面・側面写真をよく観察され、修理前後の大きな違いに驚かれました。この当時カラー写真はなく白黒ですが、まず驚かされるのは百済観音の顔の彩色が大きく剥落し、白壁のように見えていることでした。

これは仏像修理に関する研究論文をめくると、どうやら胡粉、もしくは白土あたりではないかと思われました。

 胡粉は貝殻の粉末を原料とする日本画の顔料で、白土は陶土ともいい、珪酸カルシウムのことで胡粉の代わりに用いることが判りました。そこで野島さんは写真の検証をお願いするため、大阪・吹田市にお住まいの前美術院国宝修理所長、西村公朝氏を訪ねられました。

 野島さんは修理前の百済観音の写真をテーブルに置き、ガラス乾板発見の経緯を報告されました。そして、「写真で壁のように白く見えるのは白土か胡粉であり、百済観音の微笑みは明治の修理で現われたのではないか」という野島さんの仮説を述べられました。

 西村先生は「野島さん、これはもう、執念やなあ。良く見つけられましたねー」と言われたそうです。

謎に包まれていた明治の修理はどのように行なわれたのか、少しずつ判ってきました。西村先生の所感はおよそ次のようでした。

 百済観音は彩色や漆の剥落が著しく、江戸時代、又はそれ以前にも修理が行なわれており、明治の修理が最初ではないようです。飛鳥時代からの古い漆と、その後の新しい漆が混在していることが分かるそうです。写真からは百済観音は目、鼻、唇は漆が落ち、木地が露出して、両眼のうわ瞼から額にかけては、左右に新しい木屎漆の盛り上げが見られるようです。この木屎漆の使い方で顔の微妙な表情が形成されるわけです。日本の各地にある仏像を見ても、胡粉下地と木屎漆の盛り上げ方が様々であり、仕上げの仕方により表情が大きく変わるとのことでした。

 今回の写真で見る白壁のような白色地は、広隆寺の弥勒菩薩と同じような、江戸時代の修理による胡粉下地という可能性があり、明治の修理では当然この胡粉を洗い落とすという作業があったであろうと思われる。すると、意外にもこの胡粉が百済観音の微笑みのタイムカプセルの役割を果たしたことになるかもしれないと言う解釈でした。

これらのことから百済観音の微笑みが明治の修理で現われたのではないか思われました。 

(六)まとめ

 高田良信著『法隆寺の謎と秘話』に百済観音が修理に出された時の様子が、明治三十八年九月十五日の『法隆寺日記』の引用として紹介されています。午後、主任新納忠之介氏等立会ノ上、夢殿安置行信僧都座像、金堂内四天王立像、虚空蔵立像、六体、修繕員へ引渡シ了ル。この日記から、当時、まだ虚空蔵菩薩と呼ばれていた百済観音が、新納忠之介立ち会いのもと、他の仏像とともに美術院に引き渡されたことが分かり、さらに修理を終えて十一ヶ月後に法隆寺に帰ってきたことが記されています。

最後に野島さんの今回の邂逅を『百済観音半身像を見た』引用文で締めくくります。 

 千三百年の時の流れ。今あるがままの姿を残しながら仏像を修理する。それはどのように行なうのか。

修理を行なう間、新納忠之介は何度か飛鳥時代の百済観音を思い描いたであろう。その姿はやがて幻影となり、時の彼方に消えて行く。そしてまた。同じことの繰り返し。

 こうして、百済観音原初の姿は、まるでいつか見たもののように想起されたであろう。一方で、「今あるがままの姿を残す」という修理者の使命感。想起と使命感。この苦悩の末に現在の百済観音があると考えねばならない。

「あの深淵のように凝止している生の美しさ」

和辻哲郎 『古寺巡礼』

「顔面の剥脱して表情を失っているのも茫乎として神々しい」亀井勝一郎 『大和古寺風物詩』

 それぞれの文章は百済観音の印象を述べたものでありながら、私にはそれが、新納忠之介への讃歌となって聞こえる。そして連鎖的に名古屋の百済観音半身像が思い出され、あの明るい顔立ちの半身像に、新納忠之介が思い描いた飛鳥時代の百済観音の姿が自然に投影されているのではないかと思われるのである。

 平成十年四月、私は久しぶりに奈良市雑司町の新納旧家を訪ねた。私はふと、何かあらかじめ決められた道を歩いてきたような気がした。白い壁、大和棟の屋根が見え始めると、あっ、紫。行く道に藤の花。

百済観音半身像邂逅から、はや二年の春である。                完 

 今回の平城ニュータウン文化協会と野島さんとの「邂逅」は、網干先生が不思議な糸で手繰り寄せられたように思いました。