層富No34号   2017年7月発行

表紙について

 

料理を楽しむ会この会が始まって今年で20年になります。

美味しい料理を作って食事をしながら楽しく味わい、会員の親睦も図ろうと誕生しました。旬の食材を使って和食、洋食、中華料理などを作っています。

料理のレシピは無限にあります。同じ素材でも煮る、焼く、蒸す、揚げるなど調理方法が変わると、食感、味などの違いがあり、それぞれの美味しさを楽しめます。

「口福」は幸福につながります。

「口福」を求めて毎回料理作りを楽しんでいます。

写真と文 料理を楽しむ会 講師 松村 せつ子

『巻頭言』    平城ニュータウン文化協会会長  日比野 豊 

 平城ニュータウン文化協会も創設から35年を迎え、マンネリ化と衰退の兆しが見え始めています。これを何とか打破すべきと考え新旧交代しました役員が、日夜考え努力していますがなかなか名案が無いのが現状であります。

 文化協会に限らず、奈良市においても、各地方自治体においても高齢化と少子化が大きな課題になり、働き方改革や生活の在り方まで見直さねばならない状態と言えます。

 40年以上の長い歴史を持つ平城ニュータウン内の住民の皆様の健康で文化的な生活を支えるためにも、地域の文化活動を少しでも手助けする協会を、ここで途絶えることは許されないことと思います。何とか会員メンバーのご協力のもと運営していきたいと思いますのでよろしくお願い致します。

 地域の人々が少しでも喜びに多くの時間を持てればハッピーなことであり、生きがいを持つことは命の活力になります。

 家族や近隣の人々と絆を作る喜びや、地域社会に出てボランティア活動や趣味を通じて地域に貢献する喜びなどいろいろあると思います。

 会員メンバー一人ひとりが文化協会を少しでもより良くしようとお友達を誘い、新会員を増やそうと思われればきっと新しい展開があると思います。会員皆様方のご協力とご支援をよろしく願います

「層富第34号の発刊によせて」  市民文化ホール事務長 安藤 純雄

 4月から奈良市北部会館市民文化ホールに赴任してきました安藤純雄です。

これまでは、市内のスポーツ施設、奈良市勤労者福祉サービスセンターにて勤務しておりました。

 当ホールは、平城ニュータウン文化協会会員の皆様をはじめ、奈良市北部地区を中心とする地域の皆様のご理解、ご協力、ご支援に支えられまして今日まで頑張ってこられたものと思います。心より感謝いたします。

 今後も皆様と共に歩み、支えられ、学び、今まで培ったものを継続させながら、さらなる進化を遂げたいと考えています。そして若い世代に自分たちの生まれ育った街を愛せるようになってほしいと願っています。

 そのためには、地域の皆様のご協力のもと、地域のにぎわいを共に創り、根付かせ、次代を生きる者に継承していける地域の文化芸術活動発展の基地になるべく尽力したいと考えております。

 ここ数年、高齢化が問題視され、小学校の合併統合、幼稚園の廃園、古くは右京の市民プールの閉鎖等、次々と公共施設が姿を消してしまいました。そのような中、この地区に近年、新しい住宅が建ち始めています。高齢化が進む中、新しくこの地域を居住地にされる若い方々が上手く地域に溶け込めるような雰囲気づくり、道しるべ的存在になれるよう市民ホールは微力ながら尽力して参りたいと考えております。

 当ホールでは、毎年、高の原文化講座と題しまして数多くの事業を展開しております。皆様の健康維持のため、学習のため、趣味のためのきっかけづくりとして少しでもお役に立てればと考えております。皆様がホールに集い、交友を深め、共通の楽しみを持っていただく場としてこれからも事業を企画、運営してまいります。

 地域の皆様に愛され、可愛がっていただけるような魅力のある施設をホールスタッフ一同は、目指します。今後も地域の文化芸術の発展振興のために、そして子育て世代支援のためにも平城ニュータウン文化協会会員皆様のさらなるご理解、ご協力、お力添えを何卒よろしくお願い申し上げます。

総会記念講演会

―龍の考古学―キトラ古墳への道―

    奈良大学文化財学科教授 小林青樹

 はじめに飛鳥時代にキトラ古墳など装飾古墳が出現し、日本列島に青龍をはじめとする四神信仰が流入したと考えられている。しかしすでに弥生文化において龍の意匠が多数存在し、その信仰も流入していた。今回はこれまであまり議論されてこなかった、キトラ古墳など装飾古墳の出現以前の四神信仰について考えてみたい。

1、中国における龍の起源と展開

㈠、新石器時代の龍 青龍  中国における龍の意匠の出現は新石器時代である。最初は、墓に関わる積み石や貝殻を集積して大きな遺構としていた。その後、絵画や玉として表現され青銅器文化を迎える。果たして、これら龍とされる意匠は後世の龍の系譜に連なるものであろうか。

①積み石龍:遼寧省阜新市の新石器時代前期(7600年前)の査海遺跡の積石龍である。集落のほぼ中央部に、赤褐色の石で積んだ龍形配石遺構で、長さ19.7m、龍の体の幅は約2m。祖先崇拝のためであるという説がある。

②貝殻集積の龍と虎:仰詔文化(6000年前)期の中国河南省農陽市西水披遺跡では、幅4.1mの竪穴墓に葬られた人物の東に「龍」、西に「虎」とされるものを、貝殻を並べて配置していた。

春秋時代頃に龍虎がそれぞれさそり座とオリオン座に対比され、東の青龍と西の白虎となるが、本例が果たしてその起源である。

③そのほかの龍の意匠  紅山文化(5500年前)の時期に玉龍がある。

㈡、夏商周青銅器時代の龍

①夏王朝の龍河南省偃師市二頭里遺跡(夏王朝の宮殿跡、前1800年から前1500年頃)で方頭の人面龍身を象ったトルコ石を象嵌した杖が出土している。

②殷王朝の龍 殷の時代から西周時代にかえて、青銅器のなかに甲骨文字の龍の字に起源する龍の図形がある。殷時代には様々な龍の図像が生まれ、龍の図形が整った。こうした龍の図形はさそり座の形状に当てはめたものであると考えている。

㈢、春秋・戦国時代の龍曽侯乙墓出土の衣装箱

 戦国時代(前433年)の湖北省の曽侯乙墓出土の衣装、箱の蓋の図像。長さ82.8cm、幅47cm、高さ44.8cm。内面赤漆で外面は黒漆を施す。赤漆で図像などを描いている。蓋の外面に二十八宿図が描かれその中に南方をあらわすサソリと東方をあらわす青龍を描いている。二十八宿図とは、天球における天の赤道を、二十八のエリア(星宿)に分割したもので古代中国では二十 八の星座に分けたものである。

 角宿(おとめ座α星(スピカ))を起宿として天球を西から東に不均等分割し、二十八宿の星座は四つの方角の七宿 ごとにまと められ、それらをつなぎ四つの聖獣の姿に見たて、東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四神に分けられた。

四神としての龍  四神は人の四方にある星座の精をあらわす象徴的動物。東方は木でそこにある星座は蒼龍、西方は金で白虎、北方は水で玄武、南方は人で朱雀(『論衡』)。

2、弥生土器の龍絵画

㈠、人類に必要な木火金水を東南西北に配して、上を中央におくという五行思想の観念により色を決め木は青いので東の龍は青龍となった。

林巳奈夫によると、古代中国の人々の宇宙観では人は円形、大地は方形で梁と柱(T字形の図形)で天を支えているとする。方位を四分したのは、大地の形にもとづいており四方を護るために四神を配した。四神が銅鏡の図像に見られるようになるのは、前漢後期(前一世紀)からである。

後漢時代に(一世紀)から銅鏡や画像石、瓦当などにさかんに表現される。

㈡、弥生土器の龍絵画 日本列島に最初に龍の意匠が流入したのは弥生時代である。鏡に表現された青龍のほか、土器に絵画として盛んに描かれた。龍は水神と考えられており、干ばつなどを避ける祭祀などに絵画土器は用いられた。その後、弥生時代の終わり頃に、龍は首長の権力の象徴となった。

静岡から鹿児島までの西日本に分布し、特に大阪と岡山に多い。龍の絵画の特徴は、頭・胴・尾を横八字形にくねらせた身体として表現し、それに2~1本の角、2~1本の前肢、2~1本の後肢をつけ、ときに鬘(たてがみ)、さらには下顎や舌を加えている。

🉁、こうした龍の絵画は、弥生時代中期末に池上遺跡に中国生まれの龍の神話と形象を知りうる特別な人がいたか、新たに加わり彼が龍の絵画を創造した後、その知識と図像が弥生時代後期の人と物資の流通網とともに広がったとされる。3、弥生土器の龍絵画の行方

①鏡の龍の図像は、前漢の後半で前1世紀後葉頃、方格規矩四神鏡と獣帯鏡に限定。鏡の龍は、一視点画で、陸棲の肉食獣。

②人頭龍身:弥生絵画には人頭龍身例があり、後漢の図像における仙人と龍の合体したものに似ている。

③龍と稲妻・雨:古代中国の文献には、雨乞いの儀式に土製の龍である「土龍」をもちいた。岡山県からはこの土龍に関係する土製品が出土している。

龍は雲を呼び、雨を降らせる神獣であるという神話世界が古代中国にはあった。また、龍を描いた弥生土器は井戸から出土しており、水に関わるのは明らかである。

④楯築遺跡の弧帯石と特殊器台の文様:龍の図像が盛んに描かれていた吉備において、龍の文様が特殊器台の文様に変化した。前漢以降龍は皇帝の象徴であり、卑弥呼は魏の少帝から交龍の図案をもつ布を授かっている。吉備の首長は、水を支配する想像上の偉大な存在である龍を皇帝の象徴とする中国の思想と図像を見聞きして知り、自らの祭政に取り込んだと考えた。

4、おわりに

 龍を好んだ弥生人 、それではなぜ弥生時代から古墳時代初頭の 頃、倭人社会では四神のうち龍を選んだのか?

それは、龍は東方の象徴であり、中国を中心にして考えれば、倭は東方にあり、地理的な位置関係から龍を崇拝した可能性がある。これを傍証するように、西方の遊牧国家である匈奴では西方の虎を天帝とみなし、宇宙の中心とみていた。

そして古墳時代の終わり頃、飛鳥時代にかけて高句麗などから体系的な四神信仰が新たに流入し倭人社会に四神信仰が定着したのである。

《参考文献》 林巳奈夫1993「龍の話」中公新書1118、中央公論社春成秀爾2011「祭りと呪術の考古学」塙書房設楽博己編2016「十二支になった動物たちの考古学」新泉社 (本文は第三十五回総会の記念講演会資料に基づくものです。)

寄稿文 飛鳥を愛する会

南山城の万葉と古代史の舞台を訪ねる

 2017年【飛鳥を愛する会】春季現地講座  堀口 千秋

 昨日の総会から引き続き、現地講座に参加する。自称雨男とおっしゃる岡崎先生に反して朝から快晴。 会長の木下先生をはじめ、岡崎先生、坂本先生、大島先生、影山先生と五人の先生方に加えて、犬養万葉記念館の館長、岡本さん。

豪勢な解説者陣に携行して頂き60名近くの人が2台のバスに分乗して(1台は、高の原から九時出発)一路、南山城へ向けて出発。

 先ずは木津川市加茂町の山あいにある浄瑠璃寺でバス2台が合流。早速だらだら坂を少し登って浄土式庭園と言われるお庭で、木下先生の説明を聴く。

 浄瑠璃寺は九体寺とも呼ばれ九体の丈六阿弥陀仏が一直線に並び、それぞれの前に一間の向拝扉の付いた細長い本堂に安置されている。創建は定かでなく天平11年(739)説や、南北朝時代の記事によると長和2年(1013)説や、永承2年(1047)本堂の創建とある。

 9体の阿弥陀堂は11~12世紀には「9品往生」の考えに基づき30数箇所もあったが、現存するものは、この浄瑠璃寺ただ一つである。拝観を済ませ、池を巡って庭園を一巡。東に三重塔(薬師如来)西に本堂(阿弥陀如来)という極楽浄土への往生を願う形に造られた庭園は深い緑に囲まれた静寂な地で、池を隔てて本堂を拝観すると心が洗われるよう。

 山を下り木津川の対岸に向かう。恭仁大橋を渡ったところで、万葉歌碑を見て説明を受ける。「今造る久邇の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし」(巻6・1037)大伴家持が、久邇(恭仁)京を讃めて作った歌。(山や川のさやかな有様を見れば、都をここにお造りになるのは、もっともなことであるにちがいない。)

 163号線を少し下ってすぐに満開の八重桜に迎えられて恭仁宮跡でバスを降りる。

天平12年(740)九州で藤原広嗣が反乱し、聖武天皇は動揺して12月、加茂の瓶原(みかのはら)に恭仁宮の造営を着手する。

天平15年には、平城宮の、大極殿と歩廊を恭仁京に移した。しかし、15年末には造営を中止して、紫香楽宮の造営を開始する。16年(744)2月には難波宮へと遷都になり、恭仁宮も、紫香楽宮も廃都となる。天平17年(745)に、平城京に還都、恭仁宮大極殿や、宮の跡地は「山城国分寺」として再利用されることになる。

 恭仁京はたった3年の短命ではあったが、近年の発掘調査によると大極殿の巨大な基壇や、凝灰岩礎石、建物跡《平城宮第一次大極殿と一致、移築したものであることが確認された。》

 大極殿前には、朝堂院、朝堂院南門、その南に朝集殿院などが確認されている。

 朝堂院南端では、幢幡跡も発見されている。(幢幡は7本で、中央に銅烏幢、東に日像幡、朱雀幡、青竜幡、西に、月像幡、白虎幡、玄武幡)元旦朝賀の時、大極殿の前に建てるものだが、大極殿が、まだ出来上がっていなかったので、朝堂院の前に建てたものであろう。

「山城国分寺」天平18年 恭仁宮の大極殿は、山城国分寺の金堂となる。金堂周囲の回廊や、講堂など、恭仁宮の再利用。 七重塔は金堂院の東に新たに造営された。

 現在も基壇の上に巨大な礎石十五個が残っている。円形の造り出しの上に出べそが乗り、心礎の直径は、2.2mもある。整然と並んだ巨石は圧巻。この上に立っていた七重塔はどんな美しい姿であったろうと、しばし古を夢見る。

 バスに戻って、山城郷土民族資料館に赴き、お弁当を頂いて、各自自由に資料館を見学。

予定より大幅に遅れてバスの出発になる。資料館の庭に万葉歌碑「狛山に鳴くほととぎす泉河渡りを遠みここにかよわず」(巻6・1058)(狛山に鳴いているほととぎすは、泉川の渡し場が遠いので、通ってこないのであろうか)「娘子らが続麻(うみを)掛くという鹿背の山時し行けば都となりぬ」(巻6・1056)

(おとめらが紡いだ麻を掛けるというカセではないが この鹿背の 山は時が来たので今は都になったことだ)田辺福麻呂歌集より「久邇の新京を讃むる歌」の反歌二首高麗寺は、(高句麗からの渡来系氏族建立の氏寺)木下先生の説明を聴きながら、車窓から眺める。

 椿井大塚山古墳も、1,953年JR奈良線の拡幅工事の際、竪穴式石室が偶然発見され三角縁神獣鏡が32面出土。すわ!ヒミコの墓か?と話題になった前方後円墳》車窓から、遠くに見えるのを確認。城陽市に入り、複合施設らしい大きな建物の四階にある城陽市歴史民俗資料館を見学。

 城陽市は早くから開けた地で、このあたりには、沢山の古墳が点在する。これから回る芝ヶ原古墳や、久津川車塚古墳の遺物など見て回る。

 目を引いたのは、車塚古墳の石室の状況の模型で、被葬者の周り一帯に滑石製の勾玉が敷き詰められており、頭部の下、両側、胸部の上、腹部の上、両側とで、7面の鏡、四方には刀が、並べてある。これだけ沢山の勾玉には驚いた。バスを停める処が見つからないので、久世廃寺まで、少し歩く。現在は、久世神社が建ち、金堂と、塔の土壇が残るのみ。

 久世神社横の坂沿いに万葉歌「山城の久世の鷺坂神代より春は萌りつつ秋は散りけり」(巻9・1707)柿本人麻呂歌集より鷺坂にして作る歌一首 (山城の久世の鷺坂は、神代の昔から春は草木が芽を吹きながら、秋は散ってしまうことよ。)又、2~300m歩いて移動。正道官衙(しょうどうかんが)遺跡規模が大きく、企画性を持って配置されている掘立柱建物群は、平安時代初め頃までの官衙と考えられている。

 1~3期に分けることが出来、3期の建物群は、奈良時代の山背国久世郡の郡役所跡と考えられており、「正道官衙」として国の史跡に指定されている。

 建物の柱が復原してあるが、その一部分に「藤」を這わせ、藤棚として、今、藤の花が、ほころび、日差しを和らげていた。 緩やかな坂道には、花の名前ごとに万葉歌碑が立ち並んでいた。ごちゃごちゃした家々の間を抜けて、芝ヶ原古墳に上る。大谷川扇状地を見下ろす50~52mの丘陵地にある前方後方墳で、前方部は、大部分が壊されている。

 出土した土器から、3世紀前半に築造された古い時期の古墳と考えられ、平成元年に。国史跡に指定されている。丘を下り、又、街中を歩いて、久津川車塚古墳へ向かう。

  久津川古墳群の中で、最大の古墳である。墳丘の全長は180mの前方後円墳で、五世紀前半の築造。周囲には周濠、外堤、外濠を巡らし、外濠を含めた南北の全長は272m、東西の幅、207mになる。3段墳丘の斜面には、葺石が施され、各テラスと、墳頂部には埴輪が立並び、外堤の上にも、2重の埴輪の列が回されている。

 何と豪華な古墳だったのだろう。この古墳も、1894年(明治27)私鉄(奈良鉄道)の建設により、墳丘が削られて、石棺が露出したものである。未盗掘の巨大な石棺は、竜山石製の長持型石棺で、当時は、竜山石(兵庫県産)を使って、長持型石棺を作れるのは、大王や、地方の有力首長だけに限られていたようだ。

 石棺内の出土品は、銅鏡七面、勾玉類、鉄剣、鉄刀。石棺外からは、甲冑、鉄鏃、刀剣など。石棺の両側に取り付けられた小さな石室からも、多くの武器や、武具が発見されている。 これらの規模や内容から、南山城地方を収めた大首長の墓と制定されている。 関東地方や九州地方へ帰る人たちの電車の時間がせまり、急いでバスに戻り、予定より少し遅れて17時、近鉄大久保駅で、解散。