層富No35号  2018年7月発行 

表紙について

 

 だらだら猫を沢山集めました。手編み同好会において、皆さんがいろいろな毛糸で、だらだら猫を編みました。糸の太さによって大きくなったり小さくなったり、それぞれが表情の違う可愛いい猫になりました。ここに並べて楽しみました。

 編み物は、糸一本からつくっていくおもしろさがあります。それが自分のものなのか、誰かのものなのか、いかようにも自分の意思を作品の中に込められるのが魅力です。

 アイアムオリーブ 2018年5月号 広瀬光治先生の言葉より

 

写真と文 手編み同好会 講師 堀口 千秋

『巻頭言』    平城ニュータウン文化協会会長  日比野 豊

 平城ニュータウン文化協会も創設から三五年が過ぎ、マンネリ化と衰退を何とか食いとどめるべく役員一同頑張っております。本年度は何年振りかの新講座とリニューアル講座が開設し、少しはメンバー増強に役立つことと考えております。

 40年以上の長い歴史を持つ平城ニュータウン内でも変化の兆しが見られ、一番開発の早かった右京地区や神功地区では、しばらく空き家だった家屋が取り壊され、垣根のない新規な住宅が建ち、小さなお子さんがいらっしゃる新住民がちらほら見受けられます。また地域をまたぎ木津川市との文化的交流も図れるようにと、奈良市との地域協定が結ばれて、より一層の広域地区での健康で文化的な生活を支える活動が期待されています。

 この地域の高齢者と若い人々が少しでも交流することが出来、新しい発見や喜びに多くの時間を持てれば嬉しいことであり、生きがいを持つことは長寿命への活力になります。家族や近隣の人々と絆を深め、新しいものを作る喜びや、地域社会に出てボランティア活動や趣味を通じて地域に貢献する喜びなどいろいろあると思います。

 会員メンバー一人ひとりが文化協会を少しでもより良くしようとお友達を誘い、新会員を増やそうと思われればきっと新しい展開があると思います。会員皆様方のご協力とご支援をよろしく願います。

「層富第35号の発刊によせて」  市民文化ホール事務長 安藤 純雄 

 奈良市北部会館市民文化ホール事務長として二年目の春を迎えました。昨年は、平城ニュータウン地域にお住いの沢山の方々とお会いし、お話しさせていただく中で皆様の文化に対する熱い気持ちをいっぱい感じさせていただいた一年でした。

 当ホールは、平城ニュータウン文化協会会員の皆様をはじめ、奈良市北部地区を中心とする地域の皆様のご理解、ご協力、ご支援に支えられまして今日まで頑張ってこられたものと思います。心より感謝いたします。今後も皆様と共に歩み、支えられ、学び、今まで培ったものを継続させながら、さらなる進化を遂げたいと考えています。そして若い世代に自分たちの生まれ育った街を愛せるようになってほしいと願っています。そのためには、地域の皆様のご協力のもと、地域のにぎわいを共に創り、根付かせ、次代を生きる者に継承していける地域の文化芸術活動発展の発信地になるべく尽力したいと考えております。

 今、高齢者、そして子育て世代の方々が共に集えるような施設、異世代が交流する事によって、学べる、楽しめる、安らげるような施設が必要とされています。当ホールでは、毎年、高の原文化講座と題しまして数多くの参加型事業、そして様々なイベントを企画展開しております。講座が出会い、交流の場として、そして、皆様の健康維持のため、学習のため、趣味のためのきっかけづくりのツールとして少しでもお役に立てればと考えております。皆様がホールに集い、交友を深め、共通の楽しみを持っていただく場としてこれからも事業を企画、運営してまいります。

 地域の皆様に愛され、可愛がっていただけるような魅力のある施設に、また、これまでとは違った北部会館市民文化ホールを感じていただけるような発想、変化を常に意識し何度でも訪れたくなるような場所になれるようホールスタッフ一同は目指します。

 今後も地域の文化芸術の発展振興のために、そして子育て世代支援のためにも平城ニュータウン文化協会会員皆様のさらなるご理解、ご協力、お力添えを何卒よろしくお願い申し上げます。

総会記念講演会

古都(奈良・京都)の地蔵盆―その始まりと歴史―

          奈良大学文学部史学科准教授 村上 紀夫

1、はじめに―地蔵盆とは? 地蔵盆とは、辻の祠などに安置されている「お地蔵さま」と呼ばれる石仏(木像や絵などもある)をお祀りし、お供えをして、僧侶の回向や数珠繰り、そして福引きや子どもへのお菓子くばり、ゲームなどが行われている。文化庁の調査によれば、主に京都府、奈良県、滋賀県、大阪府、兵庫県、福井県などの京都周辺の府県で盛んに行われている。それ以外の地域でも「地蔵盆」を行っているところはあるが、分布が濃厚なのは近畿圏ということになる。

 江戸時代の史料を見ると京都では7月24日に行われていた。明治以降、新暦の導入にともなって月遅れの8月24日ころに行われるようになっていたが、昨今はサラリーマン家庭も増えたため、その前後の週末の実施も多いようだ。お地蔵さまは子どもを守るといわれているので、地蔵盆は子どもの行事のようでもあり、夏休み最後のイベントとして楽しみにしている子どもたちも多い。ところが、奈良町界隈では、7月23・24日に「地蔵盆」が行われている。

 民俗学者の奥野義雄氏によれば7月23、4日に地蔵盆が行われているのは奈良盆地であり、奈良市外の県内各地では8月に実施されているところが多いという。この日にちの違いは、はたしてどこから来たのだろうか。

2、京都の地蔵信仰と地蔵盆

 そもそも地蔵菩薩は仏教の伝来とともに大陸から日本に伝わった。その後、浄土教の広がりに伴って、地獄の恐ろしさが強調されると、地獄に墜ちても救済してくれるという地蔵菩薩が広く信仰されるようになる。中世には武家の信仰を集め、そして次第に庶民へと広がっていった。

 そして地蔵菩薩のご利益は、地獄からの救済、死後の安楽だけでなく、延命長寿、安産・子どもの守護など多岐にわたるものになっていく。

 京都の辻で祀られている「お地蔵さま」は、実際には姿形が地蔵菩薩かどうかもわからない石仏が多い。このような地蔵盆でお祀りされる石仏は、中世のものであろうと考えられている。では、地蔵盆はこうした中世に、地蔵信仰の広まりのなかで始まったのかといえば、どうもそうではなさそうなのだ。何といっても中世京都の史料には地蔵盆と思われる行事は見えていない。 「地蔵盆」は中世の石仏を祭祀対象としているが、中世に始まったものではないのではないか。そこで、近世の史料を調べてみると、次のようなものを見つけることが出来た。

 1655年没の僧侶、鈴木正三の遺稿集である『反古集』の記述である。太神宮へ諸国ヨリ童部共夥ク抜参り致し候、是ハ天地ニ殊勝ノ気発リテ、則正直ナル心ニ移リタル故カト存候、一、京中辻々ノ地蔵祭、去年7月ヨリ童部共、見事ニ致シ候、此5月ニモ盆ヲ待兼候テ、辻々ニテ祭ヲ見事ニ致候(下略)鈴木正三が仏法興隆の兆しとして「地蔵祭」を挙げている。わざわざ「去年七月」としているのだから、この頃に始まった目新しい光景だったということになる。京の「地蔵祭」が17世紀半ば頃に始まるというのは間違いあるまい。

 そこで、伊勢への「抜参り」について触れられていることに注意したい。伊勢への群参は中世から時々起きてはいるが、史料の前後関係から見ると、この記事は1638年に書かれたものである可能性が高い。

 1638年といえば、島原の乱が終結した年である。大坂夏の陣から平和な時代を迎え、京都の町が発展をしていた時期である。

 人びとは再び戦乱の時代に逆戻りするのではないかという不安もいだいたことであろう。こうしたなか、子どもたちは大人たちの不安を敏感に感じ取り、伊勢参りや石仏を祀って供養するような行事を始めたのではないだろうか。そんな突発的に始まった行事は、次第に定着をしていく。

 1674四年の『山城四季物語』という本には、現在の行事とあまり変わらない様子が書かれるようになる。なぜ、突発的に子どもたちの間で始められた行事が年中行事として定着していったのか。これは、急速に拡大した都市の発展と、共同体の形成が背景にあると考えている。

 子どもたちが石仏を「地蔵」と呼んで祭祀する現象が流行していく。

 そんななか、あちこちの町で開発が進められていく。そうすると、土木工事の最中に次々と地中から忘れられ埋没していた中世の石仏が発見されることになる。これが、霊験あらたかな仏様の出現と受けとめられ、町々を守る石仏として大切に安置されるようになった。子どもたちが始めた石仏供養の行事は、成長し始めた町によって引き継がれるようになる。

 共同体の歴史のなかで、町内で亡くなった死者が共同で供養される祭祀も必要になってくる。 子どもたちが始めた石仏供養の行事は、成長し始めた町によって引き継がれるようになる。

 こうしてイエでの祖先祭祀である盂蘭盆会の後、24日(江戸時代までは7月24日)に町で一緒に、それまでの町で亡くなった人を弔う行事が「地蔵盆」として行われるようになった。

  町の未来を担う子どもの成長がお地蔵さまに祈られるとともに、町の歴史を作ってきた先人たちの霊を町で祀り、後世安楽を祈ったのである。京都の地蔵盆は17世紀、都市共同体の発展とともに始まったということができるだろう。

3、奈良の地蔵信仰

 それでは、奈良町の地蔵の歴史はどのようなものなのだろうか。奈良町では現在、7月23・4日に地蔵盆が行われているところが多い。旧暦七月に行われたものが、奈良では近代以降も七月に行われていたのかと考えてしまいそうだが、そうではないらしい。

 近世に書かれた『南都年中行事』を見ると旧暦の6月24日に奈良では広く地蔵祭祀が行われていたようなのだ。奈良の地蔵盆は、江戸時代から他地域より一ヶ月早く行われていたので、現在の7月実施もそれが引き継がれているのであろう。では、なぜ6月なのか。

 まず、奈良の中世にまで遡る必要がありそうである。戦国時代の奈良を知るための基本史料の一つとして『大乗院寺社雑事記』というものがある。興福寺大乗院門跡であった尋尊の日記である。これを繙くと、毎月24日、お地蔵さまの縁日に毎月定例の仏教行事として地蔵法楽・地蔵講と呼ばれる地蔵菩薩を対象とした法要を実施していたことがわかってきた。

 尋尊がなぜ地蔵法楽を行っていたかといえば、極楽往生を願ってのものだったようだ。尋尊は熱心に地蔵菩薩を信仰していたようで、1472年の9月24日、奈良の霊験で知られた地蔵を書き留めている。この日も地蔵菩薩の縁日であるから、尋尊の記述は単なるメモではなく、やはり信仰心のあらわれと見た方がいいだろう。

 晩年には、何か重大な祈願があったようで1498年の日記には「福智院地蔵ニ参詣、立願の子細これ在り、必ず必ず成就すべき事なり」と、相当の思い入れでお地蔵さまにお参りをしている。1505年正月の地蔵縁日には、地蔵法楽・地蔵講とともに、各地の地蔵菩薩をめぐっている。尋尊の地蔵信仰には、当時の歴史的な背景がある。

 ひとつは、地蔵信仰で知られた福智院の復興が始まったことである。1478年、荒廃していた福智院で「福智院地蔵堂修理、今日よりこれを始む、地蔵六万躰これを摺り、十方勧進也、聖六人善久方ニこれを仰せ付けおわんぬ(下略)」と資金集めが始まった。その方法は、善久をリーダーとして勧進聖が六人、印刷した六万躰分の地蔵菩薩のお札を配るというものだった。その過程では、勧進聖が人びとの信仰心をかきたてて資金を集めやすくするために、お堂の縁起・御利益を勝手に創作していた。

 それが功を奏し、人びとはこぞってお堂に参詣するようになった。そんななか、地蔵信仰にあつい尋尊も福智院に足を運んでいる。1479年8月7日の日記には、次のように書かれていた。福智院地蔵堂ニ参詣しおわんぬ、……此地蔵の腹内ニ大明神御作の地蔵奉納のうんぬん、……信仰すべし、信仰すべし。つまり、この福智院のお地蔵さまの胎内には春日大明神が自ら刻んだという地蔵菩薩像が収められているというのだ。実は、当時の神仏習合思想のなかで、春日社と地蔵は深い関係にあった。

 春日社「三御殿」の本地仏が「地蔵菩薩」であるとされていたのだ。春日信仰と地蔵信仰は矛盾することなく一体化される。福智院のお地蔵さまの胎内に春日大明神が刻んだお地蔵さまがあるとすれば、福智院の地蔵菩薩を拝むことは春日大明神を拝むことと同じだ。興福寺大乗院の尋尊が福智院の地蔵菩薩を大切に思ったのも無理はない。

 こうした福智院の復興事業にともなう積極的な勧進活動と、そこで行われた霊験の宣伝によって福智院の地蔵信仰が一気に拡大していく。ちょうど、福智院近隣には同じように地蔵信仰で知られた寺院、十輪院がある。こちらは石仏が祀られるが中世以降庶民の地蔵信仰の寺として発展した。

 福智院と十輪院が至近距離にあることもあって、相乗効果で15世紀には奈良に地蔵信仰が高揚してきている。恐らく、そこには長期化して出口の見えない応仁の乱にともなう社会不安も背景にあったことであろう。

 尋尊のような権力者が地蔵菩薩を熱心に信仰し、興福寺の近隣では地蔵菩薩を祀る寺院の復興が始まっていく。そうしたなか、庶民の地蔵信仰も高まっていった。それを伝えるのが、奈良の各地に残る石造物である。尋尊らが地蔵菩薩を熱心に信仰していた15世紀から16世紀にかけて紀年銘や戒名などを刻む地蔵の石仏が急増しはじめているという。

 盛んにお地蔵さまの石仏をつくって、死者供養を始めたということであろう。時は戦国の時代となっていく。そうした戦乱の時代のなかで民衆は権力をあてにせず、自らの手で町を守ろうとし、自治組織(町共同体)が形成されていくことになる。現在の奈良町で見かける「お地蔵さま」の石仏には、非常に古いものもあるが、都市共同体が形成されていく16~17世紀のものが多いという。こうした石仏が尋尊のように町の人びとも極楽往生を願って建立したのだとすれば、奈良町の庶民による死者供養にかかわっていたのだろう。

 15世紀の興福寺尋尊らの周辺で地蔵信仰がたかまり、福智院などの復興が起爆剤となって奈良町でも地蔵信仰が庶民に浸透していく。奈良町の地蔵盆は、16世紀に都市共同体が形成されると、町で死者供養として地蔵の石仏を祀るようになったのがはじまりではないだろうか。

 その際、町で地蔵祭祀をするにあたっては、尋尊らが興福寺内で行っていた地蔵講や、福智院・十輪院などでの法要の影響をうけずにはいられなかっただろう。現在、福智院・十輪院では七月に地蔵盆を実施している。

 奈良町での地蔵盆が7月(旧暦6月)に実施されるようになったのは、福智院や十輪院の法要にあわせたものではないだろうか。

4、おわりに

 ここまで、京都と奈良の地蔵盆について、その始まりを中心に検討してきた。

 京都では近世初頭の17世紀に町で始まったと思われるが、奈良町では中世後期に地蔵信仰が高まり、拡大していった結果、寺院内で実施されていた地蔵講が広まって民間に定着したのではないかと指摘した。

 つまり、奈良町では戦国期に既に地蔵菩薩を祀る行事が町で行われており、近世に始まった京都の地蔵盆が広がっていっても、日程的な面では福智院や十輪院の法要とリンクするように6月から移動するようなことはなかったということであろう。

 しかしながら、奈良盆地以外には中世奈良町の地蔵盆が浸透していなかったので、京都の影響をうけた日程になっていたと思われる。ただし、興味深いのは行事の面では京都も奈良町も共通点が多いことである。これは、地蔵盆がお地蔵さまを祀るという核の部分以外は比較的柔軟で、その時々の流行や行政の方針によって行事はしばしば変わりうる。

 日程面では比較的変化がなかったとしても、行事内容は京都の地蔵盆と奈良の地蔵信仰がぶつかりあって、形成されていったのであろう。

寄稿文 ブッダを訪ねて

インド紀行 飛鳥学  中嶋一樹

 日本の礎造(いしずえづく)りに大きな影響を与えたインド、ブッダ関連の遺跡を巡る旅の一部を紹介したい。

ゴーダマ・シッダールタは釈迦族の長男としてBC463年母親マーヤがネパールのルンビニ園で産気づきこの白い建物の内部で誕生した。誕生するや否や四方に夫々七歩ずつ歩み「天上天下唯我独尊」と唱えたと伝承されている。

 所が、母親マーヤは出産七日後に他界。その事がシッダールタの生き方に大きな衝撃を与えた。29歳の時、王国内での自由な生活も妻子をも捨て愛馬カンタカに跨り出家。パンダヴァ山の洞窟で苦行に専念する(BC434年)。6年余りの苦行生活に終止符を打ち、村娘スジャータから乳粥の供養を受けて体力を回復した。そのスジャータを祀るスツーパ(卒塔婆)古墳の様だが仏舎利が祀られる焼きレンガ製のスツーパ。 

 体力を回復した釈尊が35歳の時、ボッダガヤの菩提樹の基で悟りを開いた(BC428年)。

「目覚めた人・真理を悟った人」をブッダと呼び、成道を遂げた後のブッダを「釈尊」と呼ぶようになる。今も菩提樹の周りにはスリランカ・ミャンマー・ビルマなど「小乗仏教」の多くの巡礼者が五体投地の苦行や瞑想、座禅を組んで修行をしていた。

「悟りを開いた釈尊」は苦行をした仲間が修行しているサルナート(鹿野苑)に出向き、「初転法輪=最初の説法」を行った。釈尊の説法を聞き彼等も同じく出家し釈尊の弟子となった。この事で釈尊を祖とする「仏教教団」が成立する事となり、伝道教化の第一歩となった。

 マガダ国の首都、ラージギルの霊峰、霊鷲山(グリドラクータ)は釈尊やその弟子たちの瞑想や座禅の修行場として度々使われた。最初の精舎(仏教修行者の僧院のこと)となった「竹林精舎」や「祇園精舎」で修行中のスリランカ僧達。釈尊の時代に須達長者(スッダ長者)がシュラバスティーと云うこの場所を釈尊の為に寄進した。

 その場所が『祇園精舎』と呼ばれ、中国、唐の僧、玄奘も七世紀にこの地を訪れ「法華経」「無量寿経」「般若経」等を取得した。

 祇園精舎の出口で手風琴を奏でる母親の傍らで小生の孫の様な幼女が踊りながら「バクシ―」と金銭を求める乞食を見て、釈尊の時代から変わらぬカーストの世界で人々は現世で功徳を積み重ね輪廻の苦を回避し、来世には天の世界に生まれる事を願い日々生活している姿を見た。

 因果応報・輪廻転生の世界と云える。

 ブッダガヤで悟りを開いた釈尊は45年に亘ってマガダ国やコーサラ国を初めとするガンジス川流域を中心に法を説いた。そうして80歳の時に故郷を目指して最期の旅に出たがクシナガールで涅槃の旅となってしまった。(BC383年) 写真は涅槃堂と堂内の涅槃像。釈尊は弟子達に偶像作成を厳しく禁じた。しかし時が立つにつれ人々はブッダの対象物として法輪・菩提樹・仏足石等を崇拝した。紀元前3世紀アレクサンダー大王の東征でヘレニズム文化が入り込み、石造仏が作り出された。

 釈尊の涅槃後、紀元前二世紀頃から仏教に従事する僧はインド各地に1200にも及ぶ仏教関係の石窟寺院を創りだした。今回は代表的なアジャンターとエローラの石窟寺院を訪れた。 共通しているのは「仏教を信仰する力は人間の力の域を脱し神の為し得る技・業と云えるレベルにまで昇華する」と云う印象を受けた。

 紀元前一世紀頃から岩山を掘削して石窟寺院建設が始まった。アジャンター石窟寺院の全景と岩盤を木造寺院の様に石窟加工して作られたスツーパと釈迦如来像。エローラにある「十六窟、カイラーサナータ寺」は全姿を天然の岩山から彫り出したものだ。

 しかも壮大な規模で完成までに百年以上も費やされた。これを完成させるエネルギーは崇拝する神・仏への宗教心・信仰心だけであろうか? 信仰心の持つエネルギーの大きさは人間の創造を絶する。

 これだけの規模の石窟寺院が奈良平城宮と同時期に作り上げられた。石窟内のブッダ像の印相は「真理を説く」転法輪印(てんほうりんいん)を結んでいる。仏像の表情も穏やかで優しい顔立ち 殆どの台座には中央に宝輪が縦に彫刻され、雌雄の鹿が左右に座している。

 大乗仏教を信仰するチベット仏教寺院も同じデザインが散見された。

この鹿のデザインが奈良の都に持ち込まれ、神仏融合の考えの下、神道の神のメッセンジャーになり、その子孫は奈良公園で人々に愛されているのも時空を超えたブッダの影響なのであろうか? 

 春日大社の鹿に纏わる神話もインドの仏教思想から持ち込まれたのかも と想像させるような荘厳な石窟寺院群だ。仏教はアショカ王(BC268~232)の守護で拡大するものの13世紀初頭(1203年)イスラムのヴィクラマシラー僧院破壊で教団は滅び僧侶達はチベットに逃れる事となった。

 一方、仏教思想は西域を通ってBC二年、中国に伝わりAC一世紀の後漢時代、中国内に浸透し始めた。そうして、538年百済から「仏教の経典・釈迦如来像・仏具」が日本に伝来する。

 昨年訪れた龍門の「奉先寺洞」の盧舎那仏。この石窟像が東大寺、盧舎那仏のモデルとなり752年インド僧、菩提僊那(ぼだいせんな)により開眼供養会が行われた。インドでは仏教が衰退期を迎える時期でもあった。

 日本では律令国家を目指した平城期。「仏教」は国造りに大きな役割を果たしたと云える。飛鳥学の講座で奈良の歴史を学べば学ぶほど仏教があらゆる事に影響を与えながら日本の歴史を作り上げてきたことが分かる。

 これからも飛鳥学の講義を楽しみながら拝聴し、奈良の歴史の面白さを味わってゆきたい。 仏教に関連する遺跡を巡り各地の写真を見ると紀元前四世紀に恰もタイムスリップした様な感じがする。

 ゴーダマ・シッダールタが瞑想した洞窟や悟りを開いた菩提樹、人々に説法を施した場所に立つストゥーパと仏舎利の容器。その場所に居るだけで何かスピリッチュアルな物を感じた。 恐らく「小乗仏教」の巡礼者たちはこの様な現象を求めて巡礼に来ているのかもしれない。

  圧巻は聖なるガンジス河畔のガートで積み上げられた薪の上で荼毘に付されるヒンズー教による葬儀。親族縁者が遺体の周りを取り囲み念仏を唱え、荼毘に付された後は遺灰も遺骨も聖なる河ガンジスに流す事で「輪廻転生」を願う。

「人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命が決まる」。このサンサーラと云われるインド古代からの宗教、バラモン教の教えを引いたヒンズー教を信仰する人々は、生と死が共棲する街、ヴァラナーシで人生最期を締めくくる事を理想としている。

 そして聖なるガンジスの水で沐浴する事を夢としている。 ガンジス河畔の街、ヴァラナーシは釈尊の時代カーシー(光の都)と呼ばれ古来より商工業で栄える一方、聖者が集まる精神性の高い都でもあった。

 過去・現在・未来と仏の世界が一体となった特別な場所の様だ。実際今の様子からは(写真を参照)想像もできないがこの街は「人の生きざま」を深く考えさせられる所でもある。

 旅行中の楽しみは「チャイ」一杯が二十ルピー(三十五円) 甘味と紅茶の香りがドライブの疲れを癒してくれる。

 この店は水牛のミルクでチャイを点ててくれた。 ランチはカレー味のインド風餃子かインド風揚げ饅頭。共に空腹を満たすに十分で美味しかった。