層富No36号  2019年7月発行 

表紙について

 2019年5月1日、新天皇が即位し、元号が平成から令和に改められた。その昔、天皇の代替わり毎に未婚の皇女たちの中から選ばれて伊勢神宮に仕えた「斎王(斎宮)」と呼ばれる女人がいた。

 初代から約660年、60人余りが斎王に選ばれ、都から遠く離れた地で神に仕える生活を送ったという。「源氏物語を読む会」が今読み進めている巻十「賢木」には、光源氏の愛人六条御息所の娘が、斎王として母と共に伊勢へ下向するくだりがある。

 後に冷泉帝に入内した梅壺女御、秋好中宮である。 表紙写真は、斎宮歴史博物館内につくられた斎王の居室の原寸大模型である。

 十二単姿の斎王や命婦の人形などが展示され、斎宮が栄えた平安の昔を偲ばせる。

  写真と文 源氏物語を読む会 講師 浅田知里

『巻頭言』    平城ニュータウン文化協会会長  日比野 豊

 平城ニュータウン文化協会も創設から三六年が過ぎ、講座・同好会の変革を迎えています。高年齢化社会に向かい衰退を食い止めるべく役員一同頑張っております。

 昨年度は何年振りかの新講座とリニューアル講座が開設し、わずかですがメンバー増強に繋がりました。しかしながら高齢化に伴う身体的な衰えは精神論だけではカバーしきれず退会される方も見受けられます。

 そんな中でも認知症にならないためには、脳を如何に「活性化するか」と言われており、体力の余り使わない文化的活動(脳細胞運動・指先運動・口先運動等)は健康的な年齢の若返りに一役買っていることは間違いありません。

 平城・相楽地域の高齢者と若い人々が、文化的活動を通じて少しでも交流することが出来、新しい発見や喜びに多くの時間を持てれば嬉しいことであり、生きがいを持つことは長寿命への活力になります。

 家族や近隣の人々と絆を深め、新しいものを作る喜びや、地域社会に出てボランティア活動や趣味を通じて地域に貢献する喜びなどいろいろあると思います。会員メンバー一人ひとりが文化協会を少しでもより良くしようとお友達を誘い、新会員を増やそうと思われればきっと新しい展開があると思います。

 会員皆様方のご協力とご支援をよろしく願います。

「文化行政への思い」  市民文化ホール事務長 安藤 純雄  

 奈良市北部会館市民文化ホール事務長として三年目の春を迎えることができました。

昨年も平城ニュータウン地域にお住いの沢山の方々と触れ合わせていただく中、皆様の文化活動に対する熱意をいっぱい感じさせていただき、その熱さに刺激され、揺り動かされながら事業展開、施設管理に努めてまいりました。

 当ホールは、平城ニュータウン文化協会会員の皆様をはじめ、奈良市北部地区を中心とする地域の皆様のご理解、ご協力、ご支援に支えられまして今日まで頑張ってこられたものと思います。心より感謝いたします。今後も皆様と共に歩み、支えられ、学び、今まで培ったものを継続させながら、さらなる進化を遂げたいと考えています。そして若い世代に自分たちの生まれ育った街を愛せるようになってほしいと願っています。そのためには、地域の皆様のご協力のもと、地域のにぎわいを共に創り、根付かせ、次代を生きる者に継承していける地域の文化芸術活動発展の発信地になるべく尽力したいと考えております。

昨年度は十年目という節目を迎えた二つのイベント、高の原駅前ふれあい橋において 当ホールの事業であります高の原コーラスの受講生一五〇名と子どもミュージカルがコラボレーションした『ふれあいコンサート』、子どもたちから一般の方まで一日中楽しめる内容を盛り込んだ『ニュータウンフェスタたかのはら2019』を開催し、街中に元気をお届けすることができたのではないかと思っております。

 高齢者、そして子育て世代といった異世代が交流し、学べる、楽しめる、安らげるような場を提供できるよう当ホールでは、数多くの参加型事業、そして様々なイベントを企画展開しております。講座が出会い、交流の場として、そして、皆様の健康維持のため、学習のため、趣味のためのきっかけづくりのツールとして少しでもお役に立てればと考えております。

地域の皆様に愛され、可愛がっていただけるような魅力のある施設、何度でも訪れたくなるような場所になれるようホールスタッフ一同は、目指します。

 今後も地域の文化芸術の発展振興のために、平城ニュータウン文化協会会員皆様のさらなるご理解、ご協力、お力添えを何卒よろしくお願い申し上げます。

総会記念講演会

       十一面観音像の由来

 奈良大学副学長文学部文化財学科 教授 関根 俊一

一、 はじめに

 インドで成立した仏教は、釈尊の没後、教えは経典にまとめられ、さらに時代を経るにしたがって、新しい考えも取り入れた新たな経典も整備された。また、インドの様々な信仰の影響をも受け、ヒンドゥー教の神々が仏教の守護神として迎えられ、儀礼・儀式といった実践行も受容する。 

 仏教に入った神々のうち、たとえばヒンドゥー教のシヴァ神は仏教では大黒天として、仏や信者たちの守護に当たるとともに、かつて神であったときの力を保持し、仏教徒にも現世(げんせ)利益(りやく)をもたらす。

仏教の仏・菩薩などは性を超越しているが、ヒンドゥー教の神々には男女の別があり、これは仏教の守護神になってからも不変である。ヒンドゥー教で美と豊穣と幸運を司る女神ラクシュミーは、仏教では吉祥天となるが、寺院で見られる吉祥天は、やはり美しい女性の姿で表され、五穀豊穣や福徳をもたらしてくれるという。

ヒンドゥー教の神々は、しばしは複数の顔、目、手、足などをもち、人間的な姿を超越するが、そうした姿は天ばかりでなく、菩薩の姿にも取り入れられ、顔や手を多くもつ多面多臂(ためんたひ)像として登場する。わが国には奈良時代にもたらされるが、その代表的な菩薩が、これから取り上げる十一面観音や千手観音、不空羂索観音などで、変化(へんげ)観音とも呼ばれる。

二、十一面観音の成立

 古代インドにおける観音菩薩の成立は、一世紀ころといわれており、その信仰の盛行は五~六世紀、さらに多面多臂の変化観音が成立するのは、六~七世紀ころといわれている。観音の性格や利益(りやく)がしだいに強調され、具体的に多面や多臂といった姿に表されることで、その威力に人々の期待が高まる。 

 奈良時代は、平安時代に空海の体系的な密教が入る前の「古密教」の時代ともいわれる。密教というのは、簡単に言えばヒンドゥー教の影響を強く受けた仏教とでも言い換えることができるが、それは仏像の姿ばかりでなく、儀式・儀礼にもヒンドゥー教の影響を受けることである。 

 初期の十一面観音は、たとえば『法華経』「普門品」に、観音菩薩が「あらゆる方角を向くもの」と説く如く、観音に期待された幅広い慈悲の働きが、具体的に頭上面として表されたのである。しかしインドに現存する十一面観音像は少なく、ムンバイ郊外のカーネリー石窟(写真)にある四本の腕を持つ十一面観音像(六世紀後半~七世紀)が最古例である。

三、十一観音の伝播

 インドで誕生した十一面観音がむしろ積極的に受容されるのは、東アジアにおいてである。

十一面観音を説く経典が中国にもたらされ翻訳(漢訳)されるのは、六世紀の後半ころからであるが、現存する像をみる限り、一気に信仰が広まったのは唐時代になってからである。そして漢訳された『十一面観世音神呪経』、『十一面神呪心経』、『十一面観自在菩薩心蜜言念誦儀軌経』などは、遣唐使によって相次いで日本にもたらされた。とくに玄奘が訳した『十一面神呪心経』では、右手に数珠(じゅず)、左手に水瓶を執る像を示し、陀羅尼の功徳や実践的な行法も説いていて、東大寺の十一面観音悔過会(けかえ)(お水取り)などの行法の拠り所となった。

 これらの経典は、経説に沿って行法を成就した場合の功徳(効き目)を説いている。 

 たとえば『十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経』では、「十種勝利(十種類の現世利益)」として、病気にならない、一切の如来に受け入れられる、金銀財宝・食物に不自由しない、怨敵から害を受けない、国王・王子が王宮で慰労してくれる、毒薬・虫毒に当たらず、悪寒・発熱等の病状がひどく出ない、凶器による害を受けない、溺死しない、焼死しない、不慮の事故で死なない、を挙げ、さらに「四種功徳(果報)」として、臨終に当って如来とまみえる、地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない、早死にしない、今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる、を説いている。まさに強力な現世利益の力が備わっていることがわかる。 

 経典では十一面観音像をほぼ一尺三寸(約四〇㎝)の高さで造ることやとくに頭上面の配置や各面の表情が細かに記され、左三面は威怒相(怒りの表情)、前三面は寂静相(菩薩としての慈悲の表情)、右三面は利(り)牙上(げじょう)出相(しゅつそう)(菩薩相で牙をむき出す)、後一面は笑怒相(大笑いする表情)と記し、これを忠実に表そうとすると必然的に頭部の表現が強調される。 事実、現存像でも頭部を大きく造っている場合が多いのは、このことが背景にある。

四、日本の十一面観音

 日本で十一面観音の造像が盛んになるのは遣唐使などによって関係経典が盛んにもたらされる奈良時代である。十一面観音を本尊とした儀礼でよく知られるのは、東大寺の「お水取り」で、正式には「十一面観音悔過会(けかえ)」という。二月堂本尊は秘仏で、他見が許されないが、本格的な銅像であることは、現存する銅製の光背(奈良国立博物館に展示)から想像できる。 

 一方、初期の十一面観音像の特色の一つに、「檀像(だんぞう)」が多いことが挙げられる。檀像の「檀」とは、ビャクダン(白檀)のことである。現存する法隆寺の九面観音像などいくつかの像が実際にビャクダン製であるが、日本に自生しない得難い材のために、日本では唐の慧沼が著した『十一面神呪心経義疏(しょ)』という注釈書の記載に、「白檀がなければ『栢木』で造れ」という記述に従って、栢木で代用した。ただここでいう「栢」は榧(かや)のことで、したがって現存像にもカヤ材を用いたものが多い。

 十一面観音像に緻密に彫刻された作品が多いのは、一つの特徴といえる。先ほどの法隆寺の九面観音像(唐時代)をはじめ、木彫像では、法華寺像(平安時代・写真)、室生寺像(平安時代)などはその好例である。

海龍王寺像(鎌倉時代)や琵琶湖北部の渡岸寺(平安時代)、石道寺(平安時代)は、その姿の美しさでも著名で、乾漆像では聖林寺(奈良時代)、観音寺(奈良時代)がその双璧である。 

五、十一面観音を本尊とする儀礼

 十一面観音悔過のことに少し触れたが、いったい十一面観音の儀礼とはどのようなものなのか。つまり奈良時代の密教的な行法とはどのようなものか。儀礼に先立ってまず重要なことは、行者に心身の完全な浄化が求められることである。このためには厳格な悔過行や陀羅尼(呪文)の読誦を続けることが求められる。そして心身の浄化ができたら、穢れのない清められた場所(浄所)を確保し、そこを火や水、金剛(こんごう)杵(しょ)(悪のすべてを破壊するという古代インドの武器に起源を有する仏具)などで結界(けっかい)する。

 次に経典に説かれている通りに尊像を造り、これを結界された浄所に安置して、行者は眼前の十一面観音像をひたすら念じつつ自らの心中にも観音の姿を焼き付け、口に陀羅尼を念誦し続ける。やがて眼前の像が動いたり、大きな音を感じたりする兆しを得て、その浄所に天上界から真の十一面観音が来臨する。行者は来臨した仏を供養し、直接願意を告げて祈り、その後、仏を帰還に導く。仏が現世に来臨して行者に相対し、対話の後、帰還するというプロセスは、インドのヒンドゥー儀礼に由来するものである。このように仏が現世に来臨するというイメージの定着によって、以後の仏教においては、往々にしてあの世の仏に祈ることのみならず、仏が現世にやって来て救いの手を差し伸べてくれるという、現実的な姿として考えられるようにもなる。

十一面観音は、右手に数珠を持つと説かれる。数珠は陀羅尼を何度も唱え続け、それを爪繰り数えることを意味しているが、日本ではやがてこの手にさらに錫杖を持たせる観音像が登場する。

 長谷寺の本尊がこの姿で著名であるが、これは錫杖を突きながら、私たちを救済しに来てくれるというまさに現世利益の有難い観音をイメージしているのである。

 さて、先ほど檀像について述べたが、檀像は基本的に表面に金箔を貼らず、素木のまま仕上げる。これは現世に来臨する仏として、天上界の浄土にいる金色の仏と区別しているからであろう。香木で造像することで、視覚ばかりでなく、その馥郁たる香りによって嗅覚でも仏の来臨をイメージすることができる。

この檀像のヒントになったのが、『(「)増一阿含(ぞういつあごん)経(きょう)』巻二十八に見える釈尊の生涯の説話(仏伝)である。覚り得て仏教をひらいた釈尊が、ある時突然姿を消し、三十三天という天上界にいる亡母摩耶夫人に説法をするために昇った時、ウダヤナという釈迦を篤信する王が釈尊の不在を深く悲しんで病となり、見かねた従者たちが牛頭(ごず)栴檀(せんだん)(白檀)を材として五尺の釈迦仏の尊像を刻み王にみせると病気が平癒した、という故事があり、これが現世の釈尊を実写したものであるから、この世に来臨する仏は檀像によるべきと考えたのかもしれない。

六、東大寺の修二会(お水取り)

 最後に、奈良における十一面観音儀礼として最も重要な「お水取り」について少し述べる。お水取りは、天平勝宝四年(七五二)に実忠の始修以来、途切れることなく毎年二月に修される「不退の行法」である。実忠(七二六~八〇九)は、東大寺初代別当良弁の高弟で、造東大寺司(東大寺を造営するための役所)に出仕し、良弁の没後は東大寺の寺主についた。お水取りは、旧暦二月に修する、激しい動きや火を使うなどの実践行であるが、こうした密教的な行法は、国分寺を通して全国に広まった。行の最後に、井戸(若狭井)から浄水を汲んで本尊に供えることで「お水取り」の名がある。行では「練(れん)行(ぎょう)衆(しゅう)」と呼ぶ東大寺の僧侶が二月堂に参篭し、荒行を行って罪過を懺悔し、天下安穏・五穀豊穣・万民(ばんみん)豊(ぶ)楽(らく)を祈る。悔過行は、奈良時代に盛行し、 十一面悔過(二月または春秋)のほかにも、吉祥悔過(一月)、阿弥陀悔過(三月)、薬師悔過(十二月)、文殊悔過、千手千眼悔過などが記録にみえる。

悔過を行う場所は、「悔過所」と呼ばれ、紫微中台(しびちゅうだい)十一面悔過所、菅原寺千手千眼悔過所、香山薬師寺薬師悔過所などが文献にみえる。

 ところで、奈良時代の文献に「二月堂」は見えない。つまり最初は悔過所と呼ばれるような小規模な建物であったらしく、『東大寺要録』には、平安時代の二月堂のことではあるが、三間×三間であったと記す。これは現在の一〇間×七間よりかなり小さく、規模的には現在の内陣(三間×三間)と同じである。

 お水取りは三月一日から二週間が本行で、その前半を上(じょう)七日(しちにち)、後半を下(げ)七日(しちにち)といい、前者の本尊は、大観音(おおがんのん)(内陣中央厨子内に安置)、後者が小観音(こがんのん)(輿状の厨子に安置)と、礼拝の対象となる本尊が変わる。

 今は、いずれもが秘仏のために姿や大きさともに不詳であるが、『元亨釈書』によると小観音は七寸であったという。玄奘訳『十一面神呪経』では、行の八日目に浄所に(行者が念じるための)本尊を安置せよと記すが、これがその像に当たるのであろう。なお、当初の大観音は、天平宝字六年(七六二)正月に造東大寺司の「銅菩薩所」で鋳造された可能性が高く(『正倉院文書』)、江戸時代の寛文七年(一六六七)に起きた二月堂の焼失で被災したらしい。また小観音は、「実忠が補陀落山から勧請し、難波津において迎えた生身(しょうじん)の観音である」との故事がある通り、現世に来臨された観音像を写したものと考えてよいであろう。この像は、寛文七年の火災では、辛くも救出されたという。

 以上、簡単ではあるが、十一面観音の由来と、日本での受容、また行法として著名な東大寺に「お水取り」について述べた。今後も頭がたくさんあるこの不思議な観音像に興味を持っていただければ幸いである。

本稿は総会記念講演の内容をまとめたものです。奈良大学は今年開学五〇周年になり、今後も交流を深めてまいります。


寄稿文  平城宮・平城京と斑鳩・平群の史跡と万葉の舞台をめぐる

  飛鳥学 堀口千秋 

 明日香村・橿原神宮前駅・西大寺駅と集合場所をめぐって、総勢四〇人余りバスで先ず、「喜光寺」へ向かう。四〇年余り前に「ミニ大仏殿」というのを何かで読んで、ここに来たときは、草むす地で「こんないい建物が、草に埋もれているとは」と嘆きながら眺めたものだった。すっかり整備されて、見違えるようになっている。1175年造営された時は、「菅原寺」と名付けられたが、聖武天皇が行幸されて本尊を礼拝した時、不思議な光が本尊から放たれていたので、「喜光寺」の名を賜った。なおこの菅原の地は、土師氏の本拠地で、菅原道真の生誕地でもある。

 大き海の水底深く思ひつつ (裳引きならしし菅原の里)

藤原宿奈麻呂の妻、石川女郎、愛を薄くし離別せられ、悲しび恨みて作る歌なり。

という左注がついている。

(夫の愛を信じて幸せに満ちた日々過ごした菅原の里へのなつかしさ慕わしさを詠んだ歌である)。

 バスに戻って平城宮跡の「大極殿」まで移動。

 高さ3mの「龍尾壇」を上る。間口45m・奥行21mさすが大きい。中央に「高御座」黒漆塗八角形の荘厳なもの。基壇は方形で高さ1m・その上の屋形の高さが3m。中には椅子の玉座。京都御所の高御座を参考に制作されたそうだ。四面を巡る小壁には、上村敦之画伯の描く四神・十二支の図像。(2010年から9年を経て、彩色が少し薄れたよう)。正面のテラスに出て眺めると、南門の復元工事のため覆い屋が立ち、朱雀門は見えない。

 第二次大極殿と朝堂院、左手奥、東南隅に東院庭園などを確認してバスに戻る。歩けない距離ではなかったが、「朱雀門」までバスで移動。平城宮の正門である朱雀門は、東西約25.3m・南北約10mの二回建て。屋根瓦には藤原宮の瓦を使用しているので、藤原宮の朱雀門を移築したのではないだろうかと言われている。朱雀門広場に国交省が建てた「平城宮いざない館」に入る。十一時にはバスに戻ってください。とのこと。20分しかない。

 飛鳥学の人たちは昨秋見学に来たからよいけれど、ゆっくり見たかったという声が囁かれる。続いて「唐招提寺慰霊公園」の万葉歌碑を見に行く。

(巻8‐1639)大伴旅人

沫雪のほどろほどろに降り敷けば

奈良の都し思ほゆるかも

(淡雪がうっすら地面に降り積もると奈良の都が思い出される)。旅人が大宰府で詠んだ歌。

網干先生揮毫の歌碑である。

 しばらくバスに揺られ、斑鳩の「法起寺」に入る。斑鳩三塔の一つ、現存国内最古の三重塔の説明を聴く。高さは24mで国宝。創建は706年(三重塔の露盤銘による)。初層の軒を仰ぎ見て、木下先生に雲斗と雲肘木を教わって確認。伽藍配置は南の中門を入って、右に塔、左に金堂、その後ろに講堂。法起寺式伽藍配置というそうだ。お昼を回っているので、時間的に本堂の中には入れない。十一面観音を見たかったのだが。

 「中宮寺跡」で、お弁当とお茶が配られ、遅い昼食。カンカン照りの中わずかな日影があるあずまやで、何とか休息。心地よい風を受け、目を転ずれば、法輪寺の三重塔・法隆寺の五重塔・今見てきた法起寺の三重塔と、斑鳩三塔が見渡せる絶好の地だった。

 以前池があったところも埋め立てて広い空間に、一段高い塔と金堂の基壇、コンクリートの礎石が整然と並んでいる。南に塔・北に金堂、この伽藍配置は四天王寺式だなあと、先日四天王寺へ行って確かめたところなので、つくづく思い起こして眺める。

 食後、岡崎先生から発掘当時のお話を聴く。聖徳太子の母・穴穂部間人皇后に関連する寺といわれているが、創建時期も定かではない。飛鳥時代には間違いないそうだ。出土瓦から推定すると間人皇后が崩じた後、皇后の宮を寺に改めたという推古29年(621)説が、妥当と考えられている。

 法隆寺の駐車場にバスを止めて、そこから「藤ノ木古墳」まで歩く。墳丘は径48m・高さ9mで、六世紀後半の円墳。墳丘から円筒埴輪が検出されている。この古墳は未盗掘の古墳だと当時話題になった。出土品など展示してある「斑鳩文化財センター」へ回る。ここへは再度来て見ているが、見るたびにその豪華さに驚かされる。玄関前には朱の色も鮮やかな家形石棺のレプリカ。展示室の通路は羨道を模して、両側には積み上げられた石の壁を描き、床には礫の絵が全面に描かれている。

 展示室にも、ふたを開けた石棺のレプリカ。展示ケースには金銅製の冠・馬具・履・鏡。刀剣。大量の玉類。復元された土器類など、膨大な副葬品が並べてある。石棺に葬られた男性二体の被葬者は、誰であろうか?一説によれば、用明天皇崩御の後、物部守屋に次期天皇にと担がれた穴穂部皇子(欽明天皇の皇子)と、仲の良かった宅部皇子(宣化天皇の皇子または穴穂部皇子とは異母兄弟の説もある)は、一緒に蘇我馬子に暗殺されたので、この二人の可能性が大である。いずれにしてもミステリアスな話ではある。

 時間が押し迫ってきているので、「龍田小公園」はカットして、車窓から『あれが、犬養先生の歌碑です』と岡本館長。歌を読み上げられた。 (巻9ー1748) 高橋虫麻呂

 わが行は 七日は過ぎじ 龍田彦

      ゆめこの花を風にな散らし

(我々は,七日以内に帰ってまいります。龍田の神よどうかこの花を風で散らさないでください)。最後の訪問地「龍田大社」

 坂本先生揮毫の歌碑 (巻9―1751) 高橋虫麻呂の長歌 

 島山を い行き巡れる 川沿ひの岡辺の道ゆ 昨日こそ我が越え来しか 一夜のみ寝たりしからに 尾の上の桜の花は 滝の瀬ゆ散らひて流る 君が見むその日までには 山おろしの風な吹きそと うち越えて名に負える杜に風祭りせな

 (島山を行き巡っている川沿いの周辺の道を、つい昨日私は越えてきたばかりなのに、たった一泊しただけなのに、尾根の桜の花は、滝つ瀬を散っては流れている。あなたがご覧になるその日までは山おろしの風を吹かせ給うなと、龍田道を越えて行って、風の神として名高い社で風祭りをしよう)。

 坂本先生揮毫の歌碑(巻9-1751) 

 予定の五時より少し前に西大寺駅に到着。ほとんどの人がここで下車して解散。お天気に恵まれ楽しい春の現地講座を終えた。