層富No38号  2021年7月発行 

表紙について   広報・事務局より

新年度に入り平城ニュータウン文化協会もいろいろと活動をしていきたいところですが、残念ながら新型コロナウィルスの感染拡大はなかなか収まらず活動が制約されています。

市民文化ホールの会場は一部使用可能ですが、大規模集会は定員の半分以下と要望されて、五月の総会及び講演会は中止させていただきました。

去る三月二十一日に第三回理事会を開催し、第三十九回総会議案書を提出し、令和二年度の反省と本年度の計画を了解いただきました。その内容は今回発刊する「層富№三十八号」の末ページに掲載していますのでご確認お願い致します。また文化協会ホームページ(http://hntbunka.jimudofree.com)にも掲載いたしますので是非ご覧ください。

そんな中、今回の表紙は東大寺大仏殿で毎年行われています、昔からの疫病・災いなどから民衆の安泰を願ってお参りされています情景を掲載し、文化協会会員の安泰を願いたく選定させていただきました。

 どうか新型コロナウィルスの感染防止に努め、文化活動に努めて頂きたく思います。  写真と文 会長 日比野 豊

『巻頭言』    平城ニュータウン文化協会会長  日比野 豊

 平城ニュータウン文化協会も創設から三十八年が過ぎ、講座・同好会の変革を迎えています。特に昨年は新型コロナウィルスの感染拡大を受けて、世界中が感染対策に明け暮れ、当文化協会も総会・記念講演会や文化祭の式典、舞台上演等中止せざるを得ない状況で、今年もそれを引きずっている状況であります。残念ながら本年度も感染対策上、春の総会・記念講演会は中止せざるを得ませんでした。しかし文化協会としては可能な限り活動できる範囲で、講座・同好会の開催は継続して頂くようお願いいたします。

昨年は休会、退会者が三〇数名発生し、またこの春に詩吟の会が講師の都合上廃部となりました。会によっては活動が減衰しつつあるように見られますので、何とか今年度はコロナ感染対策を取りながら会員の皆様の活動を期待いたします。

活動を通じて生きがいを持つことは長寿命への活力になります。

人間は何もしなければ脳が衰退していくことは医学的証明されていますので、可能な限り小グループでも個別の文化的活動をして頂くことは(脳細胞運動・指先運動・口先運動等)健康的な年齢の若返りに一役買っていることは間違いありません。

家族や近隣の人々と絆を深め、新しいものを作る喜びや、地域社会に出てボランティア活動や趣味を通じて地域に貢献する喜びなどいろいろあると思います。

会員メンバー一人ひとりが文化協会を少しでもより良くしようとお友達を誘い、新会員を増やそうと思われればきっと新しい展開があると思います。会員皆様方のご協力とご支援をよろしく願います。

「38号発刊に寄せて」  市民文化ホール事務長 小南 元久  

 層富第三十八号の発刊と平城ニュータウン文化協会が創設三十九年を迎えられることに心よりお喜び申し上げます。

奈良市北部会館市民文化ホールは地域の皆様の文化活動の促進、教養の向上及び健康の保持を測ることなどを目的に二〇〇四年に設立されました。

設立以来、平城ニュータウン文化協会の皆様にはホールの運営、ご利用に温かいご支援とご指導を賜ってまいりました。

おかげさまで、例年約二十五の文化・健康講座と皆様に親しまれる多くのコンサートを開催することができております。 しかしながら、昨年来のコロナ禍の影響で予定していた講座やコンサートの多くが中止、規模の縮小を余儀なくされました。このため、昨年は文化協会主催で開催された「平城ニュータウン文化祭」については、ホールの出演演目や作品の出展に多大なる影響とご迷惑をおかけしました。

このような状況の中でも文化協会の皆様が文化活動の実践を続けられ、文化の明かりを灯し続けておられることにとても勇気づけられるとともにその厚い思いに深く敬意を表します。

二〇二二年には平城・相楽ニュータウン地区が街開き五十周年を迎えることになります。

当地区においても急速に進行している少子高齢化や家庭内の世代交代、経済状況の変化に対応しつつ芸術や音楽をはじめとする文化的な活動で輝き続けるニュータウンであり続ける必要があると思います。当ホールも文化協会の皆様の活動や文化、健康維持に必要なホール運営に誠心誠意尽力致す所存でございますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

最後に、平城ニュータウン文化協会の更なる充実とご活躍、会員の皆様方のご多幸を祈念いたしまして層富三十八号発刊に寄せてのご挨拶とさせていただきます。

當麻寺聖衆来迎会式の由来と 継承に関して               飛鳥学講座 (橿原市)田中 吉満

 「大和の風物詩」といえば何が思い浮かぶでしょうか。奈良市においては若草山の山焼き、東大寺お水取り等に始まる祭事でしょうか。その中でも、千年以上という長い歳月を途切れることなく続けられているものは、そう多くはありません。「當麻寺聖衆来迎会式」というと何だろうかと思われる方もおられると思います。「當麻のお練り」「當麻レンゾ」等と言えば、「ああ、あの金色のお面を被るやつね」「たくさんの菩薩様が行列されるお祭りね」と、ほとんどの方がご存じだと思います。この奈良盆地きっての風物詩といえる「當麻寺二十五菩薩練り供養」についての起源と継承に関して徒然にお話したいと思います。

仮設の来迎橋を本堂(極楽)へと進行する二十五菩薩

 

當麻のお練りは古刹當麻寺において、実に千年以上、戦禍・災害による中止もなく連綿と続いている仏教行事です。その起こりは、この當麻寺の近くに生を受け、幼くして比叡山に入り仏道を極められた僧の源信(恵心僧都源信)により始められたとされています。平安時代、源信(九四二年 ~一〇一七年)はこの當麻寺に近い當麻郷(葛城市當麻町~香芝市良福寺辺り)に生まれ、若くして比叡山に入られます。仏教で言う「末法」(一〇五二年~)の時代が近づいていた時期にあたり、その著書「往生要集」で「極楽浄土」への憧れを強く勧めます。練供養の起源は、この時期盛んに行われだした「迎講」に在ります。

「迎講」とは堂内で読経が進む中、阿弥陀如来象の脚に紐を括り、少しずつ引き寄せ、お迎えに来られる様を演出したものです。源信は一般の人にもより分かり易く、信仰を深めやすい方法として迎講の映像化、舞台化を図ります。

 寛弘二年(一〇〇五年)自らの縁の地であるこの當麻寺で、その伝承を最大限盛り込み、自ら寄進の衣装やお面を用い「舞台演出の極み」としての二十五菩薩来迎会式を始められました。「往生要集」は当時の大ベストセラーで、その著書の中で「厭離穢土」と「欣求浄土」を説かれました。

 今にも続く「地獄」のイメージの原点とも言え、その恐ろしさ悲惨さを説き、反して極楽へと向かう「成仏」を求めることの意義を説き、反語のようになりますが早く穢れた現世に別れを告げ、極楽往生を果たす素晴らしさを勧めました。それは一心に仏を想い念仏する以外に方途は無いと説きました。分かり易く目に訴える方法として、観音菩薩、勢至菩薩他、人が二十五菩薩に扮して極楽(あの世)から現世(娑婆)に迎えに来て、更に、来世(極楽)までお送りするという、演劇のようなスタイルを生み出すことになります。

さらに、この當麻寺に伝わるもう一つの伝説との合体が大きな力となり、より強く信仰を集めることになります。それは「中将姫の伝説」です。

「継子いじめ」の物語として室町時代には広く流布することとなります。もともとは天平時代の光明皇后の七十七日の法要の際、いわゆる「當麻曼荼羅」が施入されます。他所に見られないこの曼荼羅は民衆への分かり易い絵解きのツールとして、また信仰の対象そのものとして大切にされてきました。実際には、奈良国立博物館の科学分析から、絹の綴織製で唐よりの請来品とされています。しかし、亡き母親を思う信仰心の厚い高貴の娘が、蓮の茎の繊維を紡ぎ一晩で織り上げた物であるとの伝説が生まれます。そして、その後若年で菩薩様がお迎えに来られ、生身成仏を遂げられるという物語となります。当時は「成仏」は男性のみが出来るものと考えられ、女性は一旦男性に転生し、その上で成仏が出来ると信じられていました。この中将姫(法如尼)が初めて「女人」のまま成仏を果たされたという事です。後世の継子いじめの中将姫物語と相まって、當麻寺は特に女性からの絶大な信仰を得ることになります。

「会式は中将姫の成仏を追体験することで、自分たちもこのように成仏できるのだという願いのもと、実施・継続されています。」とのお話は、中将姫が継母の差し向けた追手から逃れ匿われた場所とされる、宇陀の山中に設けられた尼寺の、日張山青蓮寺ご住職からお聞きしました。つまり、中将姫の「伝説」は、そのまま真実と信じておられ、過去の「出来事」を現代でも追体験できる祭事として捉えられています。

 実際には、中将姫のご命日とされる四月十四日、午後四時頃と遅い目の時間から式は始まります。境内の中の本堂と東側に離れて在る娑婆堂との間を仮設の来迎橋により繋げられます。僧侶の読経の中、僧侶(真言宗・浄土宗二派の僧侶)、檀家の稚児などが来迎橋を進みます。そして中将姫の座像を乗せた輿に続き本堂(極楽とされる)より菩薩様に扮した信徒及び付添人が来迎橋の上を娑婆堂(現世)へと順次進みます。最期に両手で蓮座を掲げ持った観音菩薩(その所作より掬い仏と呼ばれる)、合掌したお姿で進まれる勢至菩薩(所作から拝み仏と呼ばれる)及び、天蓋を掲げて普賢菩薩が進みます。最後のこれらの菩薩衆は介添人なしの単独で進まれます。娑婆堂の前に集まられた菩薩衆の前で、先に渡られた中将姫の像の中から「化物」が取り出され、観音菩薩の蓮座に移されます。この瞬間、「来迎引接(らいごういんじょう)」、現世にて中将姫が「成仏」を果たされた事になります。会式の内容は、本堂(来世)から仮設の来迎橋を使い娑婆堂(現世)に渡り、再び来世(浄土)に向かって進む事で極楽往生を「目に見せる」事です。今度は本堂を目指して成仏された中将姫をお連れする行道が進みます。時間は日没直前になり、各菩薩様に西日が当たり、神々しくも荘厳な様が目前に現れます。来場客の中からは読経の声も聞こえてきます。

 この當麻寺は、全国でも珍しく真言宗と浄土宗の宗派の両方により治められ、塔頭により住みわけられています。会式には當麻寺全山挙げての祭礼となるものの、「担当」は宗派が隔年で担われます。そんな中、浄土宗護念院は会式で使われる菩薩面や衣装などを保管されており、毎年護念院講堂で菩薩様の「着替え」や待機の場となっています。この護念院には古くは江戸初期の日付の入った木札などが残されています。

 江戸時代の初期、民衆掌握のために寺請制度及び檀家制度が敷かれ、檀家を制限されたお寺側として会式を存続させるための手段として、菩薩講なるものが生まれたと考えられます。當麻寺の檀家信者は寺の周辺の住戸に限られ、全体規模を上げるために菩薩講という名の仕組みが生まれました。計算上、二十五体の菩薩を選ぶために、二十五の講が作られ、今の葛城市・香芝市・橿原市等に散らばっています。一つの講は五~六所帯で構成されています。つまり、講員である家は、五~六年に一度「出番」が回ってくる事となります。この菩薩様になることは非常に有難く名誉なことと捉えられます。一家のみならず親戚関係の一族から「希望者」が出ることになります。一族・家族を代表して一族の「成仏」を祈願することになります。昔は「出番」が決まったら直前は塩断ちなどの精進潔斎をしていたようですが、最近はほとんどされていないようです。

 四月当日の十日ほど前、この護念院及び本堂にて「ネリゾメ」が開かれます。練り初めの意味でしょう。単独で行かれる地元當麻の信者さんが担われる観音菩薩、勢至菩薩様が皆の前で進行を披露されます。介添人なしで進まれるわけですので、定期的な訓練が求められ、その成果の披露の意味があります。そして、各講の担当者、これは介添人と合わせ二名となりますが、紙縒りのくじを引き、当日どの菩薩様になるのかを決めるわけです。どの菩薩様でも有難いのですが、「地蔵菩薩」様なら「当たり」と捉えられています。

 現在、全国に三十程の寺院が「お練り」を行っていますが、そのほとんどが由来を「當麻寺を真似て」とされています。又、當麻寺ではこの様に「講」の仕組みにより「出演者」が決められていますが、當麻寺ほど厳格でなく、地域の檀家の女性のみであったり、十六歳までの少年少女のみとしたりあるいは、「事前に申し込めばどなたでも結構」とされているところもあります。以上

紀行文                    思い出の記  カンヌにて 榊原厚子

1、カンヌの朝

 小鳥のさえずりで目覚めた。あれ!何処にいるのだろうと一瞬あたりを見回した。駿河平とは違う! 明るい! まぶしいくらいに・・・

そうだ! 今、私は南仏カンヌのアパートの一室にいるのだ。従姉からの突然の誘いで成田を発ったのは数日前であった。彼女のスケッチ旅行に同行して来たのだった。

 カンヌの光に魅せられて、ここに二十年近く居を構えて、画家として活躍している従兄がいる。彼の住まいの近くに、部屋を一か月の予定で借りて貰ったのだ。避暑地でもあるので短期で借りることが出来たのであった。

 五月の爽やかな陽光がベランダから差し込んでくる。ここは少し高台にあり、ずっと向こうには地中海につながる海岸線が見渡せた。コバルトブルー、エメラルドグリーンなどの何色もの色が溶け合って、きらきらと輝いていた。

 到着の日は偶然にもカンヌ映画祭の始まりの日であった。アムステルダム経由での慣れない二人旅に疲れて、祭りを楽しむ余裕はなく、“シェルブールの雨傘”の、あのカトリーヌ・ドヌーヴが招かれていたのを見逃してしまったようだ。後に思うとまことに残念だったが、若い頃の彼女に思いを寄せておこうと思う。

二、マルシェの賑わい

 翌日より従兄夫妻の運転する赤い可愛いルノーサンクで、あちこちのマルシェを案内してもらった。日用品も必要だが先ずは食材である。市場の中は活気に満ちて、美味しそうな物で溢れている。野菜も果物もパック入りではなくそのまま盛り沢山に並べられて、赤や黄色のパプリカ、青緑のズッキーニ、真っ赤なトマトなど、どれもこれもビックリする程大きく色鮮やかでまるでアートのようだ。日本では見慣れない不思議な物もあり、どのように料理するのかと思う。オリーブの実もいろいろな味に漬け込まれ、量り売りされていて味見も勧めてくれた。どれにしようか迷うほど、美味しい!

野菜の横にはバジルの鉢植えが並んでおり、やはりフレンチにはバジルだろうと一鉢求めた。どうも食事作りは私の担当になりそうであった。

 お花のコーナーも広く、丈の高いバケツに無造作に投げ込まれているように見えるが、美しいバランスで種々の花が咲き誇っていた。従姉はピンクの石楠花を、私も白いマーガレットとかすみ草を両手一杯に買い込んだ。

 ある小さなマルシェの一角で、リヤカーの上にステンレスの板を敷いて、魚をさばいている若い女性が目に入った。長い金髪に大きなピアス、ラフなお洒落さはとてもお魚屋さんの雰囲気ではない。さすがにフランス女性と思わされる。

 彼女のマグロは小ぶりでもいつも美味しいと、従兄が早速買い求めた。これがその夜の夫人の手料理と共に食卓にのった。とろけるような美味しさであった。こちらでは生で食さないからか驚くような安い値段であった。また彼女は珍しい野菜や生ハムを使ったユニークな料理と、テーブルコーディネートで私たちをワクワクさせた。そうしたレシピは、その後の我が家のホームパーティーに活かされた。

 魚で思い出したが、レストランに行くたびに私はスープ・ド・ポワソンと呼ばれるスープが気に入り食べ比べた。日本に帰ってからもフランス料理店で探すがまだ出会えていない。

三、サン・セゼールを訪ねて

 従兄は私たちを毎日のように、例のルノーに乗せて走ってくれた。路肩には白や黄色やピンク色の名も知らぬ野花たちが春を彩っている。ブロヴァンスの代表的な青いラベンダー畑も所々に広がっている。

 カンヌから三十分ほどのサン・セゼールという村に、モナコのカジノ支配人を退官された方が居られて、ルルちゃんと呼ばれていた。奥様は日本の方でお付き合いがあり私達も招待されて伺った。

三千坪の邸の中には母屋、ゲストハウス、プールなどがあり、庭にはオリーブの樹や色々な果樹が植えられている。この季節は真っ赤なサクランボがたわわに実っていて、ジャムを作るという夫人の為に梯子に昇り、時々頬張りながら、かご一杯に皆で収穫しあった。花畑には一面にかわいい赤いポピーが風に揺れていた。

ところで初めて伺った時、ルルちゃんは海水パンツ姿で私達の前に現れたので驚かされた。まるであのピカソを連想させる風貌であった。お腹がちょっと出ており、もう自分は食事制限があるのに私達には料理でもてなすのが楽しみと、毎回テラスの大きなテーブルで、デカンタワインと南仏の家庭料理を振る舞って下さった。

 六月のとても暑い日、今日は泳ぎに来ないかとのお誘いがあって、伊豆の海育ちの私達は子供のようにはしゃいで出かけて行った。

お別れが近づいたある日、是非一度とモナコにも案内して下さった。カジノはもちろん入館出来たが昼間であるので閑散としていて、これが夜ともなれば華やかな社交場に大変身するのだろうと、そのゴージャスなしつらえから想像は容易であった。

対面には白い瀟洒なホテルが佇んでいる。宮殿広場では幸いにも近衛兵の交替式に出会えた。まるで絵本の中のおとぎの国のようであった。立ち寄ったブティックの中には、グレース王妃の大きな写真が飾られていて、彼女がいかに国民に慕われているか偲ばれた。

四、印象派を求めて

 コートダジュールの海岸線を囲む丘陵の上には、鷲の巣村と呼ばれている、中世の面影を残す小さな村々が点在していて、滞在中足しげく通った。どこにも印象派の画家たちの描いた景色が残されている。

 その中でもサン・セゼールへの途中にあるムージャンは落ち着いた静かな村で、お洒落なブティックやカフェがありのんびりと村中を楽しめた。そんな私たちを従兄はキャンバスの中に写した。東京での個展に出されたら手元にと思ったが、先にどなたかの元にわたってしまった。

 二十世紀の初め頃、この地を好んで制作に勤しんだ画家達も、この清々しい空気や穏やかな陽を一杯に感じたことだろう。特にサンポール・ド・ヴァンスやエズは石造りの家並みが美しく、石畳の迷路のような狭い路地を行くと、家々の窓辺には寄せ植えの花が溢れている。

 すぐ側のカーニュ村のルノワールのアトリエにも広い庭が広がり、オリーブや菩提樹が優しい匂いを漂わせていた。

ニースのマチスの美術館、ヴァンスのマチスの教会には、彼の理想の空間が作り出されているようだった。ヴァロリス村にはこの地の陶芸に魅せられたピカソの工房や美術館があった。アンティーブの海辺に建つ城塞も彼の美術館となり、そこでも多くの作品が残されている。

 その他近現代アートのマーグ財団美術館もミロやシャガール、ジャン・コクトーなど見応えがあり、目まぐるしい日々を送った。私たちのアパートのすぐ側には学生時代から憧れていた色彩画家ボナールの住まいもあった。

 そしてエクス・アン・ブロヴァンスにも二泊三日の小旅行でセザンヌを訪ねた。街のどこからも、ごつごつしたあの岩肌の

サント・ヴィクトワール山が望まれ、これがセザンヌの幾度となく描いた山だと思いを巡らした。彼はよく街の中を散歩したというこの舗道の上にも、彼の足跡があるか踏みしめてみたくなった。アトリエのテーブルには昨日まで描いていたかのように絵具、絵筆と一緒にあの花瓶やリンゴが置かれていた。イーゼルにはキャンバスが架かっていた。 

私たちのルノーはマルセーユ、サントロペと、潮の香りを一杯に浴びながら、フランス映画に出て来るような世界を疾走してカンヌに戻った。

 今一つ残念なのは、なぜゴッホのいたアルルを訪ねなかったかと思う。最近になって“ゴッホの手紙”を読んだりした為かも知れない。彼が描いていた糸杉の樹はカンヌでも大きくそびえていて印象的であった。

五、一路パリへ

 従兄夫妻にどっぷり甘えての盛り沢山のスケジュールに大満足して、一か月後、カンヌの駅からTGVに乗り込みパリに向かった。まだまだ、カンヌの海辺の広場でペタンクというゲームに興じていた老人たちの事や、その横で時々開かれていた蚤の市でのお宝探しなど、話題は尽きないが・・・・

 列車に乗ると、私の指定席には羽根飾りの帽子にシャンパンベージュのアンティークなドレスを纏った、あのアガサのミステリーに登場しそうな老婦人がどっしりと座っていた。フランス語はよく分からないが、なんとか彼女の席を探してあげて移動を促した。彼女はたまたま通路横にいた青年に、当たり前のように棚の荷物を運ばせて優雅に移って行った。私たち日本の女性にはなかなか出来ないふるまいであった。

 二人の珍道中はなお一週間続くのである。パリでは、当時フランス文化庁の招きで滞在していた磯辺行久氏の奥様が、迎えてくれる事になっている。

 あれから十数年経った現在、コロナ禍にあってこのような旅が出来たことは本当に夢の中のように思います。この記を書いている折しもフランス全土にロックダウンが広がったというニュースが流れました。

一日も早く平穏な日常が戻って来るよう祈ってペンを置きます。


寄稿文 奈良中国帰国者支援交流会の紹介

1)1945年の敗戦の混乱で多くの日本人が旧満州に取り残されました。

    1972年に日中国交が正常化し、1980年~90年代に永住帰国が進みその家族も来日しました。

帰国後は言葉の壁、就労の困難に直面、日本社会にも馴染めず苦労が絶えない生活状態でした。

「奈良中国帰国者支援交流会」は、彼らの直面する日常の問題をよく理解し相談し、親睦を深めて交流を図って行こうとの趣旨で2003年(平成15年)に設立されましたボランティア団体です。 今年で18年目を迎えています。

毎土曜日、奈良市生涯学習センターに於いて日本語教室・風習・文化・クラフト・料理・ゲーム・音楽等を企画し実施しています。加えて郊外学習(農園収穫祭、バス県外研修)、地域社会との交流学習(サンウリム、佐保まつり、平城旧跡散策)にも参加しています。

    毎年度の期末には奈良県の職員にも御来席頂き、「作文発表会」を開催しています。

*二度と戦争はしないでほしい。 *今は周りの人に感謝。

*日本語が上手になって日中がもっと仲良くなれるように。

*コロナが怖くて外出できない。*病院へ一人で行って薬を貰えるようになりたい。

と言う様な発表はとても重いものを感じます。

    現在、帰国者支援交流会への登録人数は64名ですが、この日本語学習教室への出席者は常時30名程で、殆どが当時の両親とともに来日された帰国者2世達です。 

2)私は5年前の2016年4月、「奈良市社会福祉協議会・ボランティア・センター」の推挙で、この「奈良中国帰国者支援交流会」に入会し現在に至っております。

    終戦後、父が旧満州から帰国し、私が1947年に生誕しました。(団塊世代1号) 

また36年前・1985年に初めて上海、江蘇省(南通)、浙江省(寧波・杭州)へ出張しました。

改革開放政策によって急ピッチで近代化が進みつつある現地の現実を目の当たりにし、“これからは中国ビジネスだ!”と確信した事でした。 

3)近年、帰国者(1世・2世)も支援者も高齢化し、残された時間にも限りがあります。

 皆様どうかこのボランティア活動にご賛同頂き、ご理解いただければ有難いです。 

                                                                                                                      奈良中国帰国者支援交流会        梅原健一