歴史・考古学関連 講座・同好会の紹介

ここでは「古文書読む会」 「飛鳥学講座」 「萬葉書き方教室」の会員情報や作品紹介をいたします。

古文書を読む会 柳本 博文(層富No38号より) 

 私が古文書を読む会に出席するきっかけは書道の行書、草書、変体仮名のくずしが読めたら良いなと軽い気持ちでしたが、古文書には、地方文書、武士の手紙、女性文書、村の惣代等、色々なジャンルの文書を石川先生は毎回用意して解りやすく、楽しく、時には難解な文書を解説して戴いています。古文書が活字で書かれたものでなく、くずしが、個性豊かな文書で一つとして同じ文書はありません。中でも江戸時代の文書では毎回文書ごとに、作成された年月日について、何代将軍の時代のもので歴史上の出来事だったと説明してくださいます。

 私にとってこの時が一番好きで、その時代にタイムスリップし、当時の話し方、書き方、生き様、生活様式等の説明に色々想像できる至福の時です。

 古文書を読む会により、正倉院展や時代物の展示会で古文書が読める楽しみもできました。

 変わったところでは、絵で見るなぞなぞ(判じ絵)、絵文字等絵解きクイズをチャレンジしてみてください。江戸庶民と知恵比べです。これもテキストの一部でした。

古文書を読む会 米田 悦子(層富No37号より) 

 ある勤務地でのこと。君たちはどんな字を書きたいのかと話をしたことがある。そして見本に見せたのが九成宮禮泉銘と野口英世の母堂シカの手紙である。

 前者は唐の太宗の避暑地に甘い水が出たというめでたさを文にし、それを欧陽詢が文字に起こした。当時は七世紀、楷書という書体がその美しさを極めた時代。魏徴の撰文で、泉は徳政を敷かないと湧かないと皇帝を誉めあげているせいもあり、余計に気品高い。対してシカの文字である。公教育で文字を習ったことのない彼女の字は拙い。が、息子の渡米後一二年が経ち、会いたくて仕方のない母の思いは海を越えて彼のもとに届く。

 最初この文には明らかに困惑を示す。勿論だ。表記も不完全で「出世」は「しせ」、助詞の「は」は「わ」と書かれ読みにくい。しかし彼女の人となりがわかるとみな食い入るように顔を近づけている。

 きれいな字を書けるのは技術としては良い。しかし今心を掴んでいるこの文字はその人の人生が生んだと、少々説教臭いことだが若い十代前半の五感と心に訴えておいた。 さて古文書のことである。二〇一六年にこの門をたたいた。くずし字に触れるのは大学の古典演習以来である。この隔週の講座は知らないテキストが提示されるシステムだ。皆さんは意欲的に取り組まれる。次の講座日には先の内容が会話に出てくる。沼田裁定では参った。

 真田が北条が織田が秀吉が、ああしてこうして…。ああ背景が知りたい。そしてその上で書かれた文字を味わいたい。

古文書を読む会 吉海典子(層富No36号より)

 相乗りしたタクシーでお会いしたおば様が、当時の会のお世話役。茶目っ気なお顔で、物は頭に増やすに限るわよと朗らかに仰った。気楽に、私も読んでみようかなと言ったら「遅刻厳禁、数ヶ月で音を上げないこと!」その時約束をした。

 とにかくついて行かなきゃと、課題を受け取ったらひたすら辞書で同じ文字を探す。予習に汲々として十年が過ぎた。ハタと気付いた。辞書無しでは読めない。辞書は重い。携帯は困難。最初にリーダーは何て仰ったっけ。

 見学の日。土曜午前のふれあい会館。机がロの字に並んでいて誰の後にも隠れられない。その日のメモは、板倉重昌・松平信綱・島原の乱。今と令のくずしの見分け方、チョンが一つなら今、二つが令。入会を決めたら中途入会者のために、会の開始前に時間を割いて勉強の仕方を教えて下さった。しまいっぱなしの十年前のノートを開いてみた。文字は最初の入り方をよくよく見る。次に筆順をみて、筆順通りに書いてみる。文字の形を印象的に掴むよりも筆順を辿る。間違えやすい字は辞書で確認して書き出す。予習よりも復習が大切。帰ったら声に出して三回読む。言葉とリズムが身につく。 「復習」「読む」。忘れていたというより、十年でようやく出発点についた気がする。あの日、目の前を軍勢が駆け抜けた気がした。熱心なリーダーとメンバーで作り出された真摯でユーモラスな空間が眩しかった。

 元和二年は西暦一六一六年。家康が生涯を閉じる。イロイロございました。

これは覚えた。対象は戦国から幕末を生きた様々な人々。加藤清正の書状を読んだ帰り。お一人が加藤清正はまだ生きていたんだなぁと仰った。粛然とした。文書を書いた人は、確かにその時生きていたという当然の不思議。

 皆さまどうぞ、命長く、身健やかにいらして下さい。ご一緒できて本当に幸せです。

万葉書き方教室 柳本 恵子(層富No38号より)

 「平城ニュータウン文化祭」で展示されていた皆さんの作品を見させて頂き、その後、先生とお話をさせてもらい、万葉書き方教室に入会しました。中西先生が作ってくださる毎月のお手本は多様で、とても楽しみです。硬筆ペン、中字ペン、筆ペン、万年筆などそれぞれを使い、作品を書きます。

 教室では、一度書いて添削して頂きます。少し直していただくと、とてもきれいな文字になります。『ここはいいね』と言っていただいたりして、小学生のようなキラキラした時間を過ごします。次の月までに、またもう一度家で仕上げて先生にみて頂きます。先生はとてもやさしく、的確に指導してくださいます。続けられるのは先生と皆様のおかげと、感謝しております。

万葉書き方教室は今年で九年目になりました。

今、会員は十五名です。毎月第三土曜日十三時三十分、右京ふれあい会館にて活動しています。

楽しい時間を一緒にすごしませんか。

一度見学にお越しください。皆様の参加をお待ちしています。

 

万葉書き方教室 中西 恵子(層富No37号より)

 きれいな文字を書きたくて、以前の「平城ニュータウン文化祭」の刺激をうけて入会しました。

 毎月を何となく、それでも忙しく過ごしていましたが会員になってからは、毎日二十分から三十分テレビも消して、机に向って静かな時間をすごすようになりました。

 お手本は先生が作ってくださいます。

硬筆ペン、中字ペン、筆ペン用と三種類あります。苦手なものがついつい後まわしになってしまいます。書けば書くほど肩に力が入り、思うようにいきません。三枚とも清書して先生に見ていただくことができません。先生は、ほんの少しの良いところを見つけては、ほめて下さいます。先生も大変です! 

 私の方は調子にのって続けています。先生のほめ育てのおかげです。

 毎月第三土曜日 十三時三十分 北部会館にて練習しています。ぜひ一緒に先生にほめてもらいましょう。

万葉書き方教室 西村絢子(層富No36号より)

 万葉書き方教室に参加させていただいて足掛け四年になりました。まさかこんなに続くとは、思ってもおりませんでした。

 最初、見学に寄せてもらった時私は左利きで、用紙の向きが縦横反対に置かないと書けない事、筆が苦手なので、ペン字だけでも教えていただけるのかと、おそるおそる先生にお訊ねしました。

すると先生は右手、左手で用紙に正対、私流の左手書きと三種類書いて見て下さいとおっしゃいました。書き上げたものを見て、あなた流の書き方でよいですよと言っていただけました。

 小学生の時から字を書くのに苦手意識を持っていた私が四年も続けて来られたのは、おっとりと全てを受けとめて下さる先生のおかげと思っております。

 ただ不肖の弟子は、あまり練習もせず、活動日の前日に提出分を慌てて書いている状況です。それでも先生は、どこか良い所を探してほめて下さいます。

 昨年度は源氏物語の和歌と一筆箋に皆で取り組みました。解説の本を見て歌の意味を調べるのも新しい楽しみでした。

 今年度はどんな課題を選んで下さるのか、楽しみとドキドキと半々です。

 現在、受講者は十四名で、月一回、和気藹々と練習しております。毎月第三土曜日、十三時半から北部会館で活動しておりますので、よろしければ一度見学にお越し下さい。皆様の参加をお待ちしております。

      「飛鳥学講座」 田中 吉満 (層富No38号より)

 明日香村。県内に居住する誰もが知っていて一度ならず訪れたことのある所。変哲のない田畑の景色が広がっている村。

この場所が「日本国」が生まれた場所なのです。

原風景の残る場所として貴重な所と捉えられていますが、果たしてどのような価値があるのでしょうか。何故大切にされるのでしょうか。私達は、この飛鳥と呼ばれる地の、主には六世紀から八世紀初頭の約二〇〇年余りの事を学んでいると言っていいでしょう。しかし、現地を訪ねても、ほとんどのものが目にすることのできないものばかりです。「このあたりが、」と田畑の地面を指さし、「ここの古墳は、」と森を指さす。

その内側は「知られまいぞ」とでもいうように、固く土に覆われています。

その、目にするのが容易でない所を、さも見えているかのごとくに考古学会の権威であられる木下正史先生(東京学芸大学名誉教授、明日香村文化財顧問、飛鳥を愛する会会長他)のお話が毎週行われます。

直接、発掘にも携わって来られた木下先生ならではの「生」のお話は、これ以上の説得力を持つものはないでしょう。今現在は「藤原京跡」がテーマになっています。

 しかしながら、毎月のように新たな「発掘」や発見の報道があります。「新鮮」なニュースは興味深く重要で、その度に「寄り道」が長くなり、講座のテーマそのものはゆったりと進んで行きます。次のテーマは決まっています。

実は皆様が待ちに待っていた「邪馬台国」のお話の予定です。好奇心が揺さぶられ期待感が益々高まります。

ただ、残念なことにそのテーマに至るまでには、先生にご用意頂いたテキストの藤原京跡のページは、まだまだ残っています。

        「飛鳥学」 松本 和英 (層富No37号より)

「お釈迦様と涅槃図の物語」

 二月十五日(陰暦)は、お釈迦様の入滅日(涅槃・ニルヴァーナ)で全国の多くの寺院では

涅槃図を掛け「涅槃会」の法会を行います。(三月十五日の場合もあります。)

 涅槃図にはお釈迦様が沙羅双樹の間に身を横たえ、たくさんのお弟子や国王・大臣・天の神々、動物たちがその死(涅槃)を嘆き悲しんでいる場面が描かれ、『遺教経』を誦したり、涅槃講式を読んだりして法会を行います。

 日本での涅槃会は、推古天皇のとき奈良の元興寺で行われたのが最初ともいわれています。現在でも最も有名なのは興福寺本堂で行われる常楽会で、(『大般涅槃経』が説く涅槃の四つの徳、「常楽我浄」にちなむ)二月十五日に八相涅槃図を掛け僧侶十名の「舎利和講」声明に合わせて春日大社楽人により雅楽を奏楽されます。また散華も行われます。

 お釈迦様は二十九歳の時に修行に入られ五十年の伝導生活を送られました。そして、八十歳を迎えられ、最後の旅は、弟子の阿南と南の霊鷲山を経て祇園精舎を目指す旅でした。二月十四日入滅の前日に波婆の都に至り、城外の樹園で休息されました。

 お釈迦様の到着を知った純陀は心を尽くして食事を作りました。

 純陀は栴檀樹の茸を煮てお釈迦様一行に奉りました。お釈迦様は食された後に「純陀よ、残った茸料理は穴に埋めよ。如来のほかに、それを食して消化できるものはいない」お釈迦様はこの茸が有毒であったことを承知でご自分一人だけ特別な食事を召し上がり他の者には食べさせませんでした。

 ご入滅の時が近づいていることを覚られ、クシナガラに向かわれ、跋提河を渡り、沙羅双樹の下に床を伸べられました。お釈迦様は御頭を北に、西向き右脇にしてお伏せになりました。天の真ん中に浮かぶ満月、二月十五日の夜半入滅せられました。

 涅槃図の中には嘆き悲しむ純陀の姿も描かれています。また、お釈迦様が最後の飲み物となった水を阿南に所望されます。そしてこれが最後のお飲み物となります。

 この故事を「末期の水」の起源と指摘されることもあります。阿南は涅槃図の中央で泣き伏せています。

 この他にも涅槃図には色々な物語がありますので拝観を楽しまれることをお勧めします。

 興善寺(奈良市)の涅槃会に掛けられた涅槃図)(図2)

 お釈迦様の前では阿南が泣き崩れている。

 中央上部には二月十五日の満月が出ており右上からは摩耶夫人が降りてこられる。

釈迦が火葬された場所に建造されたスツーパ(ラマバハースツーパ・荼毘塚)荼毘に付されたお釈迦様の舎利は最初八分割された。

クシナガラの涅槃堂とスツーパ(仏舎利塔)

世界から多くの巡礼者が訪れ涅槃堂の周辺で講話を聴く巡礼者たち。 

涅槃堂内の釈迦涅槃像

涅槃仏は右の手を頭の下に置き、穏やかなお姿で「頭北面西」の言葉通りに横たわってます。お釈迦様の足先が少しずれており、それがインドでは涅槃の姿であるとされています。

        「飛鳥学」 中嶋一樹 (層富No36号より)

「インドから伝わったヒンドゥー教の神・ガネーシャ神と歓喜天(かんぎてん)」

 奈良市を訪れる外国人観光客数は年間で二百万人を超え、この十年間でほぼ四倍にも増加した。人気のスポットは東大寺・奈良公園の鹿・春日大社・興福寺などですが、ある時「歓喜天を見たい」と云うスウェーデンからの訪問者の依頼で調べてみると、「歓喜天」はインドのヒンドゥー教と関連した神仏である事が分かり、昨年この頁をお借りして「インド仏教に関する遺跡」を紹介した内容とも繋がる話題となった。

 インドでは大乗仏教が五~六世紀頃に興隆期を迎えるが古来のバラモン教に変革が加わり土着の信仰・加持祈祷・風習を取り込んだヒンドゥー教の勢力が浸透拡大し始めると、仏教も勢力維持のためにヒンドゥー教の神々を仏法の守護神として取り入れ密教化されていった。これらの神々が中国に渡り日本にも伝えられて来た。

 今回の主題「歓喜天」とはインドでは厄除災害・成功・祈願成就・財運向上・智慧・学問の神として祀られる像の頭を持つシヴァ神の長子「ガネーシャ神」だが、九世紀頃には日本でもこの神仏が信仰されるようになって来るが日本では「聖天」として祀られている。

 現世利益を叶える神として財運・福運・智慧・学問の神として強い信仰を集めている。

この「聖天さん」のご本尊は「歓喜天」であるが日本では秘仏中の秘仏として扱われている。

「粗暴で邪悪なガネーシャ神に対し仏教に帰依する事を誓わせたのは慈悲の心を持つ十一面観音菩薩であった。ガネーシャ神はその後に善神となって仏法の守護神となった」と云う言い伝えから「歓喜天」が祀られている所には慈悲の神「十一面観音菩薩」も祀られている。秘仏である「歓喜天」は男女二体がハグをしている彫像(双身歓喜天)をネットで見つけたが、実物の彫像を見る事は可能なのか? 

 生駒の宝山寺は霊験あらたかな寺院で秘仏「歓喜天」がご本尊として祀られているが誰もその姿を見る事は出来ない。ところが奈良町の一画に石仏龕で有名な十輪院の本堂内に何と「歓喜天」が祀ってあり、その彫像は二像がハグをした立像だ。詳細な製作年は分からないが密教化されたガネーシャ神を拝観できる貴重な所だ。スウェーデンから追い求めて来た「歓喜天」を拝観する事が出来て満足して帰国された。

 訪問頻度の少ない平城宮跡の魅力に取りつかれたスペイン人は、展示されている木簡標本の漢字を丁寧に読みながら奈良時代の食文化・生活文化が予想以上に高いレベルの暮らしであったことを理解してくれた。昨年のミステリーツアーで学んだ事が大変役に立ち喜んで貰えた。

 上海に三年ほど住んでいる間に漢字を学び、中国やアジアの歴史にも興味が沸いたので、中国の文化がどの様に伝わったのか奈良に来て理解する事ができたと喜んでいた。  

 最期にヒンドゥー教の神でインドでは大抵の町や村々には「ハヌマーン」と呼ばれる「力と生命力の象徴」として猿の姿をした神が祀られている。この神は中国では西遊記に登場する「斉天(せいてん)大聖(たいせい)孫悟空(そんごくう)」のモデルになったようで、日本には「孫悟空」として流布される事となる。

 日本には色々な物事が中国からも朝鮮半島からも伝わって来た、正しくシルクロードの終着点だ。この原稿を書きながらもっとインドについて学ばなければと感じた。次回もご期待下さい。

「飛鳥学」 中嶋一樹 富No35号より)

 飛鳥、藤原を経て唐の都、長安を手本にした我国最初の首都が平城の地に築かれ律令国家としてスタートした。

 平城京の人口は十万人を超え、その中には多くの渡来系及びその子孫の人達も含まれていた。当時の日本全体の人口が約六百万人と云われる中で平城京は正しく国際都市として世界から当時の最先端の技術、工芸、文化を積極的に取込み日本の国作りの礎を築いたと云える。

 「青丹よし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり」と歌われるほどの繁栄ぶりであったようだ。

 渡来人は古代社会(弥生時代頃)には一説では百万から百五十万人程が移住してきて、日本に順応同化して行った。古代から海運力に優れた日本人と渡来人及びその子孫とがチームワークを組み大陸との交流を深める橋渡し役を演じて来た。その当時の先端技術、技能、工芸を有した渡来系の人々を受入れ、彼らの持つそれらの技能を学びながらノウハウを吸収し日本人固有の技術、技能、工芸へとその内容を昇華させて行った。その様な最先端技能を持ち込んだ渡来系の人々との共同生活はするものの地域の自治権は日本人が維持していた。渡来系の人々との関係は相互依存型的な関係でもあった。

 仏教は五三八年に百済から持ち込まれ、当初は日本古来の自然崇拝、神を尊ぶ神道との軋轢もあったが神仏混合と云う互いの良さを生かした方法での協調路線を創りだしたのも日本人独特の「智慧」であった。東大寺の場合、旱魃や疫病などで人々が社会不安、生活不安に陥っているのを聖武天皇がご覧になり、「仏教」によって世の中を安定させて人々に秩序と平和をもたらそうと東大寺、盧舎那仏の建立を決意され、その東大寺の境内に手向山八幡宮が建立された。何故ならば、神社は寺院に神道の神の加護を提供し守護神の役目を果たすと云う「神仏混合」の考え方がここに現れる。

この様に異なる宗教が共存し共に崇拝される国は日本くらいではなかろうか?

 廬舎那仏は公麻呂(百済官人の後裔)が建立の指揮を執ったものの聖武天皇は全ての人々の手によってこのプロジェクトを完成させたいと云う願いが叶い260万に及ぶ人々が参加し、開眼会はインドの僧、菩提僊那の持つ筆に聖武天皇の意思を伝える紐が繋がれていた。天皇を軸とした律令国家としてスタートしたものの渡来系の人々が活躍する場面が多くあったが、あらゆる儀式や式典でのイニシアチーブは日本人がコントロールしていた。

 奈良の文化遺産の多くには日本人の先達の努力の跡が感じられる。

グローバル世界の中で日本人のアイデンディティーを如何に守り、我々の考えを訴える力が求められる奈良時代の先達に学ぶ所が大いにある。

   古文書を読む会 加納 暉彦(層富No35号より)

 古文書というと難解なものと思われがちですが、百年ほど昔の人がコミュニケーションツールとして日常的に使いこなしていた文章に過ぎません。

入会以来八年、リーダーを師匠とし、同志の方々の懇切な御指導を賜りながら、相変わらず辞書を片手に四苦八苦して居りますので、楽々と読めた昔の人の能力に対して引け目を感じてまいりました。

 昨年、水戸黄門漫遊記がテレビ復活するとのこと、この機会に崩し字で書かれた本を読むべく探索する過程で、元禄九年に黄門が書家に作成させた「草露貫珠」という草書辞典で、佐々宗淳書の序文に遭遇しまた。

その一節に「真唯一体、莫有変転、草則書家者流競構新奇、変幻百出、夫怒猊渇驥之勢、游龍驚蛇之態、謄蚊起鳳之姿、奔雷墜石之状、自非博学精究安得識之」とあります。

 難解ですが、一つの真(楷書)に対し、草(草書)は莫大な変化を競い、博学精究の人以外は読めないとの大意と理解されます。

 中国流の誇大表現を用いて悪態の限りを尽し、草書解読に苦労して頭に来ていた様子が察せられます。草書文は当時の知識人でも決して、スラスラ読めたわけではないのですね。自分が読めなくても当然と、我が意を得た想いで積年の胸のつかえが氷解しました。

 黄門が江戸と水戸の往復以外に旅した記録は無く、全国行脚したのは、黄門の命で「大日本史」資料探索をした家来の助さんこと佐々介三郎宗淳でした。漫遊記は明治中頃、大阪の講談師が助さんに想を得て創作したのが真相のようです。

 当時、政府には、山県有朋はじめ強欲な多くの長州出身者が幅を利かし、末端に至るまで、汚職が蔓延していました。それ故、前政権である徳川家の黄門様が悪代官や御用商人を懲らしめる話が庶民の人気となったのでしょうか。今風に言えば、代官は財務省の役人で、御用商人は「森友・加計」という役回りでしょう。直裁的な言論が許されない時代、庶民はこんな形で政治に対する鬱憤を晴らしたのでしょう。

 一枚の古文書を契機として、多方面に想いを巡らして楽しんで居ります。当会の活動状況は、例年の如しです。